鼓動

 そのインスタンスに来たときから、何か様子がおかしいとは思っていた。

 最近仲良くなったフレンドの女性。普段決まったフレンドにしかジョインしない僕が彼女にジョインしたのは、本当に偶然、そのタイミングに、ボタンを押す勇気が出せたからだった。

 動画プレイヤーやペンなどさまざまな機能が備わり、雑談部屋として人気のワールド。そこはフレンドプラスで建てられており、日付を越えたこの時間、ソーシャルを確認すれば僕と、猫耳メイドアバターの彼女と、知らない男性アバターのユーザーしかいなかった。

 ワールド入室音が彼らに聞こえている手前、挨拶はしたほうがいいだろうと各部屋を回った。しかし二人の姿はどこにも見当たらなかった。

 最後にチェックしたある部屋の前で、僕の足は止まった。内側から鍵をかけることができ、中の音声も外からは聞こえない部屋だ。きっとふたりはここで話し込んでいるのだろう。

 身内同士の話を邪魔したくなかった僕は残念に思いながらも、その場を去ろうとした。

 しかし、僕がメニューを開いたとき、その部屋のドアが開いた。

「こんばんは、○○くん。ごめんね、気づくのが遅れて」

現れたのは、彼女一人だけだった。彼女の息は少し上がっているようだった。

「こんばんは。お邪魔しちゃってすみません」

「ううん、いいの。もう終わったところだし」

彼女の声はいつもより鼻にかかって聞こえ、かすれていた。僕は妙な違和感を覚えながら、ふと彼女の背後、部屋の中を見た。ほとんど真っ暗な部屋に、男性アバターのユーザーの姿はすでにない。代わりに部屋の中央に鎮座したダブルベッドの周りに、ろうそくや鞭と言った道具が散乱していた。僕は確信に変わろうとする違和感を押しとどめようとした。

「あ、気づいちゃった?」

僕の視線に気づいた彼女は、いたずらっぽく笑った。僕は誤魔化すべきか、素直に認めるべきか迷った。彼女と僕の普段の距離感を考えれば、とるべき選択肢は前者だった。

 彼女と僕は一か月ほど前に共通のフレンドを介して出会った。最初の彼女の印象は、年上のお姉さんだった。誰とでもにこやかに接し、自然な相槌を打ち涼やかな笑い声をあげる女性。アニメやパソコンにも詳しくなさそうな彼女がどうしてVRChatに来たのか、僕には分からなかったし、聞くほどの勇気も持てなかった。なんとなく、普通の女性である、という思い込みゆえに、女性慣れしていない僕は自分から話しかけに行くことができなかった。

 それでも、彼女に好感のようなものは持っていた。僕が話の輪に入れずひとりでワールドの隅で遊んでいると、彼女はわざわざフレンドの輪を抜けて近くに来てくれた。そうして僕の、大して面白くもないであろう学校や普段しているゲームの話を、楽しそうに聞いてくれた。彼女と過ごすことは心地よく、いつの間にか彼女と会うことは最近の僕のVRChatでの楽しみになっていた。

 今夜彼女にジョインしたのは本当にたまたま。誰かと話したい気分だったけれど普段話すフレンドは寝静まっていて、彼女がソーシャルにいたから、一日の終わりに少しでも話せたら素敵だろうなと、勇気を出してジョインしたのだった。

 それが、おそらくはセンシティブな行為をしているところに居合わせてしまうなんて。

「どうしたの? 黙り込んで」

彼女の艶っぽい声に、現実に引き戻される。誤魔化すには不自然な間が開きすぎた。こうなると馬鹿正直な僕はもう、見たことを認めるしかない。

「えっちなことは、VRChatの規約違反ですよ」

彼女は腕を組んで首を傾げた。僕は身長の低いマスコットキャラクターのようなアバターを使っているので、彼女の斜めの視線に見下ろされる。

「○○くんたら真面目だなぁ。これくらいたくさんのひとがこっそりやってるよ。海外のひとはパブリックでもやってるし」

普段と違う雰囲気をまとう彼女に気圧されながらも、僕は理論武装を試みる。

「そういう問題じゃないですよ、第一ここだってパブリックじゃないですか、誰か来たら……というか、現に僕が来てるんだし、危ないですよ」

「だってそのほうがスリルあるじゃん? どうせ鍵かけるから外からは聞こえないし」

片手を上げて彼女が腰を揺らすと、首に巻かれたリボンとブラウスに包まれた胸がゆるゆると揺れた。僕はそれから目をそらして言う。

「だからって……。僕じゃないひとが××さんのしてることに気づいたら、言いふらして炎上しちゃうかもしれないんですよ」

「私のこと心配してくれてるの? ありがと」

彼女の声が近くなる。見上げれば、愛らしい少女の顔はごく近いところにあった。びっくりするほど優しい声で、彼女は語りかける。

「でもね、そんなことは起こらないの。今回はわざと君に、君だから気づかせたの」

僕は唾をのみ、できるだけ平坦に聞こえるように言った。

「どういうことですか」

「君が私がえっちなことしてるって気づいたらどう反応するかなって、面白そうだったから」

そう言ってくすくす笑う彼女を前に、HMDの下の僕の顔は真っ赤になってしまった。

「からかわないでください。そんなこと言ってると、通報しますよ」

「えーそれは困る。ね、君、お願い。このことは秘密にして」

眉を八の字に曲げ、うるんだ瞳で乞われては、僕の一瞬固まりかけた決意など脆く崩れ去ってしまう。僕は大きく息を吐いた。

「分かりました。このことは誰にも言いません。その代わり、こういうことをVRChatの中ではしないでください」

「えー、君、私を脅すの?」

彼女は露骨に嫌そうな声を出した。僕は素直に、でもはっきりと、自分の気持ちを伝えることにした。

「脅してるんじゃありません。約束してほしいんです。僕は、××さんがこういうことをしてるのを見るのはつらいんです」

彼女は黙り込んだ。言い過ぎたかもしれない、とすぐに後悔が頭をもたげた。けれども僕は間違ったことは言っていない、とも。彼女が規約違反の行為をしているのも、そんなことを彼女にしてほしくないのも、本当だった。

 僕が好きな女性に、そういった行為をする相手がいるのがつらいのも。

「分かった」

彼女はゆっくりと、きっぱりした声で言った。

「もうこういうことはVRChatではしない。その代わり、君にお願いがあるんだけど」

真面目くさった口調に、嫌な予感と甘い期待がないまぜになる。

「なんですか」

猫耳メイドの少女はにっこりと笑った。

「オフで私と会ってくれない? ○○くんには前から興味があったんだよね。ごはん食べに行こうよ」

理由を問うべきかと思った。一度断るのが自然かとも思った。けれどもそれらをして、もしもこれがわずかなチャンスだとしたら、逃してしまうのが惜しかった。

 だって僕の心は、彼女が笑んだ瞬間に決まっていたのだから。

「会います」

自分の声は苦しげなものに聞こえた。不承不承という態度を作るので必死だったが、心の中は跳ねまわりたい気持ちでいっぱいだった。

「決まり」

彼女はゆっくりと言い、VR空間にデスクトップの画面を呼び出すときの仕草をした。

「じゃあ、予定合わせたいからDiscord教えて」


 彼女の第一印象は、小さい、だった。

 当然だ。普段使っているアバターは身長差はあっても、男である僕のほうがリアルでは背が高いに決まっている。

 彼女が教えてくれたのと同じ姿の女性は、駅の改札ですぐに見つけることができた。

 落ち着いた色の髪に上品なワンピースを着た大人の女性。僕が近づくと、彼女と目が合った。僕は頭を下げるふりをして視線を逸らした。

「はじめまして。○○です」

そう言ってちらりと彼女を見る。ほっとしたような表情は一瞬で消え、花のほころぶような笑みで僕を見つめ返した。

「はじめまして。××です。今日はよろしくね」

バッグの取っ手を握り直す手も、小さく、白かった。

 はじめてのデートだった。僕は勝手が分からないなりに、彼女の意に沿いたいといろいろ調べていたつもりだったのに、彼女に好物を聞かれてランチはオムライス屋に入り、彼女にしたいことを聞かれてゲームセンターに行った。彼女は終始にこにこと、僕が食べたり遊んだりするのを眺めていたが、僕はこのままではいけないと思い、彼女にこれからどうしたいか問うた。時刻は日が沈むころだった。

「そうだなぁ。○○くんって成人してたよね?」

「はい、去年二十歳になりましたが……」

「じゃあお酒飲みに行こ。居酒屋でよければ、美味しいところがあるの。時間大丈夫?」

大丈夫だった。大丈夫だったけれど、袖をめくって時間を確認した。そうしてふわふわとした巻き髪を揺らしている彼女に言った。

「終電までに帰れればいいので平気です。××さんは?」

「私は明日までまるっと空いてるから平気だよ」

さ、こっち、と道を指す彼女の隣を、速くなりすぎないように注意して歩いた。

 小気味よいヒールの音が、僕の気持ちをしずかに浮き立たせる。

「焼き鳥美味しかったね、久しぶりに気持ちよく酔っぱらっちゃった」

「すみません、僕の方がたくさん食べたのに、割り勘にしてもらって」

「いいのいいの。学生さんなんだから、無理しない」

上気した頬で微笑む彼女の瞳を真っすぐに見つめて、僕も笑う。会ったときの緊張はずいぶんほぐれ、彼女とこうして肩を並べて歩くだけで甘酸っぱい気持ちが胸を満たした。火照った頬にあたる夜風が心地よく、雑多な繁華街すらきらきらとして見える。


 時刻は8時ごろ。名残惜しいがそろそろ彼女を駅に送り届けなければならない、と思っていたとき、彼女が口を開いた。

「このあとどうする?」

「時間も遅いので今日は帰ろうと思います。駅まで一緒に行きましょう」

「そうなの? 今、駅へ行く道とは反対方向に歩いてるんだけど」

「えっ」

周囲を見渡すと、確かに来たときと街並みの様子が違った。立ち並ぶ大きな建物は軒先にネオン色の看板を出し、そこには時間と料金が派手派手しく書かれている。僕は立ち止まり、赤面した顔を彼女から見えないよう道のほうにそむけた。

「なんで言ってくれないんですか」

声だけで、彼女がにやりと笑ったのが分かった。

「○○くんがこういうところに来たいのかなぁと思って。はじめて会ったのにやるねぇ」

「そんなわけないじゃないですか」

僕がしどろもどろになって答えると、彼女は僕の脇を小突いた。

「んー? ○○くん、私のことなんとも思わないの?」

「そういうわけじゃ、ないですけど……」

彼女が僕の顔を覗きこむ。視線だけそちらに向ければ、彼女のうるんだ瞳が、僕を見上げている。

「ね、このままお別れしちゃのはさみしいの。もうちょっと○○くんとゆっくりお話ししたいな。ホテル入っちゃだめ?」

ずるい、と思う。そんなふうに言われたら、断れるわけがなかった。自分の激しく脈打つ心臓の音を聞きながら、僕は頷いた。

「××さんが、そう言うなら……」

彼女が安心したように微笑む。

「よかった。じゃあ行こ」

そう言って、小さな手を僕の手に絡めてくる。僕は喉の奥で唸った。彼女に触れられることは決して不快ではなかった。彼女とできるだけ長い時間いっしょにいたいというのも、本当だった。ただ、この先に進んでいいものだろうかという不安が、心の隅で頭をもたげていた。

 それでも彼女は僕を導いていく。細い指が指したのは、白いライトで照らされた比較的シックなデザインの玄関だった。


「○○くん、こっち来てみて。お風呂広いよー」

部屋の奥から彼女のはしゃいだ声が聞こえる。僕は気が気でなかった。彼女のハンドバッグの放り出されたベッドの脇にそろそろとリュックサックを置き、ソファに腰掛けて膝の上で両の拳を握りしめている。

 彼女がバスルームからひょいと顔を出す。

「もう、ラブホに来たらお部屋観光は定番でしょ? ○○くんも見て回ろうよ」

「こういうところははじめてなので知らないです」

もう、堅物だなぁ、という声は言葉とは裏腹に上機嫌そうで、彼女はバスルームから離れて壁際の棚に近づくと、慣れた手つきでその扉を開けた。

「じゃあなにか飲んで落ち着こっか。なに飲む? 珈琲と紅茶と緑茶があるけど」

「……緑茶で」

はぁい、と軽やかな返事をして、彼女はティーカップに緑茶のパックを入れる。ウォーターサーバーから注がれるお湯のこぽこぽという音さえ非現実的なものに聞こえた。休憩、とは分かっているものの、入室してまず巨大なベッドが目に飛び込んでくる部屋では、借りてきた猫のように委縮するしかない。

「はい、お茶」

「ありがとうございます」 

彼女はローテーブルに2客のティーカップを置くと、僕の隣にすとんと腰掛けた。ソファが微かに沈み、彼女の座っているほうから体の側面に熱のようなものを感じる。昼間見た妖精のような印象とは違う、生身の人間がそこに実在している感覚。僕は黙って緑茶を啜った。

「写真で見たときよりふつうの部屋だったね。でもアメニティが充実しててよかった」

「アメニティ?」

「ホテルに備え付けの消耗品のこと。歯ブラシとか化粧水とかさ。身ひとつで泊まることになっても困らないの」

「そうですか。××さんは、こういうところに詳しいんですね」

彼女の表情が揺らいで見えたのは、僕の願望だっただろうか。彼女は意に介さない、というように笑った。

「急な出張のときに便利なのよ。ひとりでキングサイズのベッドを使うのは虚しいけどね」

そうしてゆっくりと緑茶を飲んだ。空気清浄機の控えめな稼働音だけが聞こえる。僕は自分の方から話題を提供すべきだと思った。けれども話の糸口が見つからない。結局、ずっと訊きたかったそのことを、口にすることにした。

「××さんは」

彼女の瞳が僕を見る。普段使いのアバターと合わせたのか、薄青色のカラーコンタクトレンズを入れた大きな双眸。まるで春に大地を埋め尽くす花のようだと感じる。

「僕とこんなところに二人っきりになっていいんですか。この間鍵付きの部屋に一緒にいた方とか……お砂糖とか、いないんですか」

ふふ、と彼女が噴き出した。口を押えた手の先で白い宝石のちりばめられたネイルが光っている。僕は途端にバツが悪くなった。

「そんなに笑うことないじゃないですか。僕は○○さんになにもしないですけど、なにかあったと疑われてもしかたない状況ですし」

彼女は手を振って答える。

「だって、ホテルに入ってからそんなこと訊かれたのが、おかしくて。そういうのって事前に確かめておくか、いっそ見過ごすものでしょう?」

「女性経験ないので知らないです」

僕が唇を尖らせると、彼女がずいと身を寄せてきた。思わずソファの上で身を引いてしまう。

「じゃあ、私が教えてあげる。女の子とデートするのがはじめての○○くんにいいことを教えてあげる」

華奢な手が僕の頬に伸びた。彼女の顔が近くにある。直視できないでいる僕の耳元で、甘やかな声が聞こえる。

「ホテルに二人きりで入ったら、えっちしてもOKってことなんだよ」

どういうわけか、直感が働いた。いつもの彼女なら、きっとここで相手にキスをするつもりだった。けれども今の彼女はそうしなかった。ごく至近距離で、僕を見つめたままでいる。この続きをしないのは、彼女なりの慈悲、僕への優しさなのだろう。あるいは、手加減されているのか。

 このままだと流されてしまう、と思った。

 押し返した彼女の細い肩は、とても重いものに感じられた。

「だめです」

「え?」

彼女が虚を突かれたように目を丸くする。僕は重い唇を開いた。

「僕は女の子と、会ったその日にえっちなんてできません。それに、もしかしたら僕が悪い男で、○○さんにひどいことをするかもしれないじゃないですか。○○さんは、もっと相手を見定める時間を持ったほうがいいと思います。自分のことを、大事にしてください」

彼女の顔の上に、さまざまな表情を見た。悲しいような怒っているような、あるいは嬉しいような。複雑すぎて、僕にはそれを解読することはできなかった。けれども僕は、ここで彼女が僕を嫌いになって帰ってしまっても、仕方がないと思っていた。僕は彼女を拒絶したのだから。

「童貞」

飛んできたのは、そんな容赦のない罵倒。さすがにそれを真正面から受け止める度胸はなかった。僕は目を逸らして、彼女のワンピースの腰に巻かれたリボンを見ていた。

「はい」

「意気地なし」

「おっしゃる通りです」

「据え膳食わぬは男の恥って言葉を知らないの?」

「よく承知しています」

「分かってないよ。もーっ」

そう言って両手で僕の顔をはさんでぐにぐにと押す。僕は今、相当情けない顔をしているに違いない。間違ったことはしていないと思いつつも、今すぐ消えてしまいたいほどの羞恥を感じていた。この機を逃したら、一生女性経験がないままかもしれない。せっかく好きなひととホテルにまで来れたのに、なにもしないで帰るのは馬鹿だと思った。

 けれども、彼女に本当の気持ちを伝えないまま一線を越えてしまうのは、不誠実なことだと信じられた。

「○○くんは、誤解をしている!」

彼女は僕の頬から手を離すと、人差し指を立てた。僕はその一本の指に気圧されて後ずさる。彼女はごく真剣な声で言った。

「○○くんは私のことを誰とでもすぐ関係を持っちゃうひとと思ってるかもしれないけど、そんなことはない。○○くんに言われてからはVRCでもリアルでもえっちなことはしてない。それに、私は今日○○くんだからいいと思ったの」

「それはつまり」

僕の視線は彼女の顔に移る。端正な眉の下で青い瞳が僕を真っすぐに見つめている。

「僕のことが好きってことですか?」

「そうだよ」

彼女は指を下ろしてそっぽを向いた。その頬が赤く見えるのはラブホテルの照明のせいではないだろう。彼女の果実のように濡れた唇が、丁寧に、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「VRChatで会ったときから、かわいい男の子だな、リアルで会いたいな、って思ってたの。××くんは覚えてないかもしれないけど、まだフレンドになってないときに言い寄ってくる男の人から守ってくれたことがあったでしょう? 私は全然平気だし一人でも追い払えたけど、若い男の子がそこまでしてくれたから、なにか恩返しがしたかったの」

そういえばそんなことがあったような気がする。VRChatでは時の流れが速く、さまざまなひとと出会う。会話までは覚えていても、個々人は認識していないことも少なくない。そんな中、僕が彼女の名前を覚える前から、彼女は僕を目に留めておいてくれたのだ。

「でも、だからって」

親密な空気に浸っていたが、僕はあることに気づいて声を上げた。

「ほかのひととのVRえっちを見せつけたり、会ったその日にラブホに誘ったりすることないじゃないですか。ふつうに好きって言ってくれたら……」

ぼふ、と顔に柔らかいものが触れた。ソファの脇に追いやられていたクッションが僕の顔に押し付けられている。んん、と唸るとその向こうから彼女の切羽詰まった声が聞こえた。

「しょうがないでしょう、ほかにやり方知らないんだから。セックスに持ち込めなかったらどうやって好きになってもらえるかなんて分からないもん」

僕はクッションを強引に押しのける。彼女の照れくさそうな顔は、すぐにその両手に隠されてしまった。僕はその手首をつかんで、引き寄せる。あっという小さな悲鳴とともに、細い体はすっぽりと僕の腕の中に収まった。柔らかく、今にも壊れてしまいそうなぬくもりだった。

「好きですよ」

彼女のにおいがする。彼女の肌の震えが伝わる。胸に彼女の命の重さを感じる。今まで彼女といっしょにいて、彼女が何を考えているのか分からないことがほとんどだった。けれども今なら分かる。きっとあのままセックスをしていたら分からなかった、彼女の本当の気持ち。

「怖がらなくていいんです。僕がそばにいるから、もうさみしい思いもさせません。○○さんのこと、僕に大事にさせてください。僕とお付き合いしてください」

最初は、くすくすと笑い声が聞こえた。やがて、鼻をすする音に変わった。手の甲に水滴が落ちる。僕はより一層強く彼女を抱いた。僕はもう、不安も後悔も感じていなかった。ただ、この腕の中にいるひとと、魂の深いところで繋がっていたいと思った。

「いいよ」

しばらくして僕を見上げた顔を、そこに宿った幸福な輝きを、僕は一生忘れないだろう。

「どこにいても、ずっとそばにいてね。これから、よろしくお願いします」




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