インソムニア
あなたは私の帰る場所だ、と君は言う。
確かに君は一日の終わりに僕のところに来る。深夜零時を過ぎ、皆へのあいさつ回りを済ませたあと、いつもの睡眠部屋で僕たちは落ち合う。
僕たちは皆の前では会わない。それぞれの生活や人間関係に干渉しないことが、一種の誠実さだと思っていたからだ。皆への? 僕と、君への? 分からない。とにかく、僕たちがプライベートになって何をしているのか、ふたりはどんな関係か知っているフレンドは少ない。
まあ、どんな関係でもないのだけれど。
恋人でもなければお砂糖ですらない。ただの添い寝友達。でも君は一度だけ、僕を自分の家だと言った。
「あなたと一緒にいるときだけ何者でもない私でいられるの。あなたは私に何も期待しない。私はあなたの前でだけ穏やかに眠れる。それがどんなに、得難いことか」
君はいちいち大袈裟だった。僕たちはいっしょにいても寝ることしかしない。現実は嘘で、夜の夢こそほんとうだと君は言う。君は古風でもあった。そんな昔の作家みたいなこと、君が言っているのしか聞いたことがない。
あるいは君は、僕のために子守唄を歌ってくれたこともあった。
普段僕は寝つきがいいが、その日はたまたま眠れないでベッドの上でごろごろしていた。君のほうからは、起きているような、起きていないような気配がしていた。けれどそのうち君の顔が僕を向いて、小さな声で歌いだした。
かーらーすーなぜなくのー からすはやーまーにー
「何それ」
僕が聞くと、子守唄、と君が短く答えた。そしてすぐに、知らないの? と問うた。僕は否定の返事をする。
「これは?」
びわはーやさしーいきーのみだかーらー
「知らない」
そう、結構有名だと思ったのだけど、と言う君は、首を傾げて、もしかして子守唄を歌ってもらったことがない? と聞いた。僕はそうだと答えた。君はびっくりするほど優しい声で、そう、と言った。
「それなら、私が歌ってあげるね」
僕の返事も待たずに、君は、どれがいいかな、なんて唄を選んでいる。唄なんて歌われたら逆に眠れなくなるのではないか、と思ったが、君が楽しそうなので、水を差すようなことはしなかった。
「今夜は、月の砂漠を歌うね」
僕はHMDの下で眉を持ち上げた。それは子守唄ではなく、相当古い童謡であるはずだ。昔テレビの教育番組で見かけたことがある。おそらく、君の年を取った家族が幼い君に歌ったのだろう。ああ、君は愛されて育ったんだな、とそのとき僕は思った。
つきのーさばくをーはーるーばるとー
白んだ闇の中、君は澄んだ声で歌いだした。音程は拙くも、柔らかく包み込むような歌声が耳孔に注がれる。窓の外で銀色の月が輝いている。あの星のさらさらとした砂の上を、長い睫毛を伏せた駱駝が、高貴なひとを乗せて歩いていく。その足元に伸びる長い影。唄の中でしか語られることのない、遥かな旅路。
意外なほどあっさりと、僕は眠った。夢の中で僕は、後ろの駱駝に乗っているのが君だと知っていた。一度も振り返らなかったし言葉も交わさなかったけれど、僕が僕であるのと同じくらいよく、分かっていた。
だってここには、僕と君しかいないから。
翌朝起きたとき、君が隣にいた。僕はおはよう、と言った。君は笑って、おはよう、と言った。
「よく眠れた?」
「おかげさまで」
「夢は見た?」
「さあ……覚えてないや。君は?」
君はふふ、とおかしそうに零した。
「見たよ。すごおく変な夢。バスに乗ってあなたのところにハンバーグ弁当を届けに行くんだけど、なかなかバス停に着かないの。ずっとバスに乗ってた。やっと着いたと思ったら、夢はおしまい。そのときに、運賃はいりません、商店街の消費促進のためのサービスです、って運転手に言われるの」
そのとき僕の脳裏に、さっきまで君と会っていたような感覚が走った。果てのない大地を、何年も何年も、二人きりで旅していたような、切なくも懐かしい気持ちが胸に押し寄せる。けれどもそれは唇に乗せられるような言葉にならなかったし、する必要もないと思った。
僕は笑った。
「それは変な夢だね」
そうして凝り固まった体を、ベッドの上で起こす。
「おかげで、ハンバーグが食べたくなったよ」
現実の朝の重みが、頬の上に乗るのを感じた。
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