物語以前
「あー小説のネタ思いつかない」
深夜の焚火ワールドで、僕の隣に座ったフレンドが言った。
「そんなこと言って、さっきのひと悶着とか小説にできそうじゃないですか。絶対面白いですよ」
僕が軽口を叩くと、彼は抑揚のはっきりした声で答える。
「それじゃあ実録になるだろ。俺が書きたいのはフィクションなの。架空でもって読み手の中にある感情を呼び起こして揺さぶりたいの。そういうのがね~最近思いつかないんだよね」
まいったまいった、とこぼす彼が、それでも小説を書くのを辞められないのを僕は知っている。僕は平凡な大学生。彼は趣味で小説を書いている、おそらく社会人。VRChatをはじめなければ、彼のような人種には出会わなかっただろう。創作を魂の拠り所とするような人種には。
平日の夜。僕はアルバイトを終え、このインスタンスにいる彼のもとにジョインした。ここはQuest対応ワールドということもあり、Questユーザーのフレンドが集まっていた。ワールドの雰囲気と彼らの人柄も相まって穏やかな時間が続いていたが、0時近くなり挨拶周りに来たフレンドたちにより、場の空気は一時活発なものになった。深夜ならではのテンションによるネタの応酬。笑いにオチがつくと当事者たちはにこやかにログアウトし、他のフレンドたちも次々にインスタンス移動した。残ったのは翌日午前講義のない僕と、普段何をしているのか分からない彼だけ。こんなふうに深夜に二人きりになることは、珍しくなかった。
「スランプってやつですか。締め切り前に真っ白なエディタの前で何時間も座ったままになる、ってやつ」
僕が知り合いの字書きを思い浮かべながら言うと、彼が大きく頷いた。
「よく知ってるじゃん。でもなんだろ、俺の場合技術不足かな。あれ書きたい、これ書きたいっていうテーマはあるんだけど、事件にまで落とし込めないの」
「事件? 盗難とか殺人とか?」
「それは限定的な意味ね」
彼は一度咳払いをすると、身振り手振りを交えながら滔々と説明をはじめた。小説の話となると彼は饒舌だ。
「ここでいう事件っていうのは、話の中で最初の状態から最後の状態に移動するきっかけのことを言うの。たいていの小説というのはまず日常があって、そこに事件が起こり、事件への反応があり、事件が深刻化し、最終的に事件への対処が行われて、でも事件が起こる前とは違った日常を過ごすことになる。それがいいものであれ悪いものであれね。物語とは移動のことを指すんだよ」
「たとえば僕があなたのお砂糖相手をプラべに呼んでえっちなことをするとかも事件になりますか?」
彼は一度笑い、得意げに言った。
「呑み込みが早いね。でもそれは事件になりえないかな。なぜならそんなことでは僕とお砂糖相手の関係性は揺るがないので」
「急に惚気ないでくださいよ」
「むしろそういうプレイに目覚めるまである。そうか、寝取られか……悪くないな」
本気で考え込んでいる様子だったので、僕はきっぱりと言った。
「当て馬にしかならないことが分かったので絶対にやりません」
「なんだよ君、俺のお砂糖相手に興味ないのか?」
「ひとのものに手を出すほど愚かじゃありません」
「そういうときは、確かにあなたのお砂糖相手は魅力的だけど、って枕言葉をつけると印象がいいぞ」
「僕がそんな器用な人間に見えますか?」
「見えない。でも、それが君のいいところだと思ってるよ」
「急に口説かないでください」
「本当のことを言ったまでだよ」
「そういうのを口説くって言うんです」
「君は素直に褒め言葉を受け取るということができないのかね。まあそこがまた……」
彼の美少女の顔が、たまたまそのハンドサインを入力しているからだろう、うっとりとしたものに変わる。僕はそれを無視して続けた。
「話を戻しましょう。書きたいテーマを事件に落とし込むって、難しいんですか?」
彼の応答は、早く、きっぱりとしていた。
「難しいね。こればかりはじっくりネタ出しをするか、ひらめきが訪れるのを待つしかないかな、俺は。でもそんな悠長なことをしていると、現実に追い越されてしまうんだ」
「事実は小説より奇なりってやつですか?」
「そうそう。テーマを決めて温めていてもね……現実のVRCでは、一見思わぬところから関係性の破綻や感情の噴出が起こっているように見える。でもそれらは細かい日々の積み重ねによって起こったものだから、経緯をほぐしていくと整合性が取れていて、人間の細やかな感情の移り変わりがあったことが分かる。あのようなものは俺の筆ではフィクションの中に書き起こせない。本当に、俺の技術不足だ」
彼が少し声のトーンを落として言う。普段人を食ったような性格をしている彼でも、創作の前では思い悩むことは多いらしい。
「僕は好きですよ、あなたの小説。僕のような普段本を読まない人間でも、感情を揺さぶられるものがあります」
「ありがとう。そう言ってもらえると書いてよかったと思うし、モチベーションになるよ」
普段人を茶化してばかりの彼の、それはきっと心からの言葉だった。
「何か創作の面でもお役に立てたらいいんですけどね」
僕は素直に照れ、そうして急に思いついた、ふりをする。
「あ、ひとつ事件を思いつきました」
「お、なんだい」
彼が身を乗り出す。僕はできるだけ自然に聞こえるように言った。
「僕があなたに告白をするというのは、事件になりますか?」
彼は一度大きく笑うと、手を振りながら答えた。
「そっちの寝取られかぁ。ならないね。だって君と俺だぜ? その組み合わせはないって、読者も分かってるよ」
「分からないですよ。本当は僕があなたに言えない想いを抱えているかもしれないじゃないですか」
「そうだったら事件だな。その場合であっても、君は俺への感情を恋情だと勘違いしているだけだ。俺たちは友達のまま。物語における移動は起こらない」
「ここは、小説の中じゃないんですよ」
沈黙。これで伝わらないほど彼は愚鈍ではない。ここで笑い飛ばすほど彼は薄情ではない。だから僕は信じて、告げた。僕の想いを。彼にお砂糖相手がいると知りながらも、架空の力をきっかけに借りて。
ひとを好きになること自体は悪いことではない、と教えてくれたのは、彼の小説だった。相手とどうなりたいか、自分の気持ちを真っすぐに見つめること。時にはその一線を越える勇気を持つこと。ずっと同じ時間を過ごすうちに積もった彼への想い。それを彼がどう受け止めるか、僕は確かめずにはいられなかった。
彼はゆっくりと、静かなバリトンの声で言った。
「そうだ。だから最初から、君は事件なんて言葉を使うべきじゃなかった」
答えは充分だった。僕は赤面することもできなかった。
「移動、したくないです。あなたとは、友達のままでいたいです。今言ったことは……忘れてください」
やっとのことで出した声はかすれていた。彼が柔らかに微笑む。
「そうしよう。俺も忘れる」
彼の声はいつも通り僕の深いところに降りてきて、優しく心に触れた。彼の小説そのもののような彼の在り方が、僕は好きだった。今はそれを、残酷だと感じる。
「今日はもう落ちます。おやすみなさい」
手を振ることもできず、僕はそれだけ言ってメニューを開いた。
「お疲れさま。おやすみなさい」
画面が暗転する刹那、視線を上げると彼はきらめく瞳で僕を見つめてくれていた。昨日も、今日も、明日も、友達の彼。移動は起こらなかった。きっとこれからも、彼は今まで通り僕に接するだろう。
僕の目の前に映る見慣れたホーム画面。涙するのは今夜だけにしようと思った。
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