水奏
タイル張りの浴室で、僕たちはバスタブの中に向かい合って座っている。お湯を掬い上げるようなやわらかな水音が響いているが、僕たちはどちらもそのような動作はしていない。繰り返される環境音と淡いBGMの中、僕たちはただお互いの間にある水面を見つめていた。青い水面はさざなみを立て、あたたかそうな湯気を放っている。
「ちょっと狭いね」
僕はそんなことを言った。こんなとき何を言うべきか分からなかったからだ。
「うん」
彼の答えもシンプルだった。彼はこの部屋にただの観光のつもりで来たのだろう。彼と僕はVRChatの中のパートナー関係、お砂糖を結んでいる。こんなふうに深夜に二人でワールド巡りをするのは日常の一部だった。今日は彼がこの、ある目的のために使われる部屋として有名なワールドに来たことがないと言うので、僕が案内した。きっとそれは、ゆるされているということだと思った。
僕は意を決して、彼の顔を見つめる。
「リアルでも僕とこういうことしたいって思う?」
「さぁ…」
「さぁって、無責任な」
なにか反応があると思った。イエスでも、ノーでも、気持ち悪いでも。でも彼はまったく興味がなさそうだ。まるでその関係は、僕たちにかかわりがなく僕たちの外にあるものであるかのように。
「私は君に対して何の責任も負ってないよ」
彼の声は普段通り落ち着いている。凪いだ海のようにしずかなテノールの響き。その声が好きだった。でも今日はその平静さが、恨めしかった。
「自分の感情に対してって意味だよ。僕とそういうふうになりたいとは、思ってないの?」
僕が唇を尖らせて言うと、彼がわらった気配がした。
「随分率直に聞くんだね。そういうところは、嫌いじゃない」
ずるい、と思う。いまそんな優しい声を出すのは、反則だと思う。僕は彼の手のひらの上だ。彼に恋してしまったばかりに、彼の言葉一つ一つに翻弄され続けるのだ。
「付き合おうよ」
やっとのことで言うと、彼は首を傾けて僕を見た。
「馬鹿じゃないの」
そうしてたおやかな手で、僕を撫でた。ここでできるなら、リアルでもできるのではないか。シャンプーと僕自身のにおいの混じった髪を撫で、肌に触れ、世界のどこにいても大切な存在だと囁きながら、抱きしめてくれてもいいではないか。
彼はただ、澄んだ瞳で僕を見ている。
「何笑ってるの」
僕が責めるように問うと、彼はゆるゆると首を振った。
「ううん。しばらくは、このままでもいいかなって」
僕はすっかり、泣きたくなった。
「いいよもう。さっきのは取り消し。君とは永遠に付き合わないから」
彼の手が止まり、僕の唇に触れる。
「構わないよ」
彼の声の水面が、少しだけ揺れて聞こえた。きっとそれは、僕の願いだった。
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