vita
オレンジ色にきらめく波打ち際で、彼女が手を振っている。
私は彼女のいるほうに向かって歩き出す。砂浜にはちいさな足跡がついていた。彼女の裸足がつけたそれを踏まないように、隣に自分の足跡を印していく。
「見て、きれいな石を見つけたの」
私が近づくと、彼女は笑って手の中のそれを見せた。それは表面のざらざらとして白っぽい、透明な塊だった。
「ガラスだね。波に洗われて角が取れたんだ」
「そうなの? はじめて見たわ。きれいね」
そう言って夕日にガラス片をかざす彼女は、まるで子供のようだ。
「地元の海では見なかったの?」
「ええ。小学生のころに海難事故が起きて男の子が一人亡くなってしまってから、ずっと海には近づいてはいけないって言われてたの。大きくなったら勉強ばかりで、遊ばせてもらえなかったし」
「そうか」
彼女は微笑むと、ガラス片を海に向かって放った。ちいさな欠片は音も波紋も立てることなく、白い波頭に消えた。
「あなたの故郷に来れてよかった」
彼女は麦わら帽子を押さえて言った。
「あなたの育った街を見て、あなたの幼いころを想像できた。どこにいても潮の香りがして、あなたみたいに優しい街だった」
私は帽子をかぶりなおし、「さて、帰ろう」と口にした。彼女がそんな、と残念そうな声を出す。
「もう少しここにいましょうよ。海水に足を浸してみたいの」
「だめだよ、合わないヒールのせいでかかとが擦り切れているだろう。傷口から黴菌が入るかもしれない。ここには水道がないし」
「じゃあ、石段に腰掛けてお話しするとか」
「海辺では日が落ちると途端に寒くなる。そんな薄着では風邪をひいてしまうよ。駐車場も閉まるし、そろそろ車に戻ったほうがいい」
分かったわ、とうなだれて、彼女は波打ち際から離れた。白いワンピースの裾がふわりと揺れる。そうして私に体を寄せると、太陽のような笑顔で私を見上げた。
「じゃあ、また来ましょうね。次はペットボトルの水とタオルを持って、早い時間に。お弁当も作って、二人でピクニックしましょう」
「ああ、覚えていたらね」
彼女のふくれっ面を無視して、私は歩きだした。ゆっくりとした歩調に彼女はすぐ追いついて、私の手に自分の手を絡めてくる。その大切なぬくもりを、私は強く握り返した。
vita
「えっユキカゼさんって結婚してたんですか?」
フレンドの1人が声を上げて驚く。私は落ち着いて答えた。
「そうですね、もう10年以上前のことです。いわゆるバツイチというやつですね」
へぇーと語尾を伸ばすフレンドはやはり反応に困っているようで、私は穏やかに笑って手を振った。
「確かに当時は大変でしたが、いまはお互い楽しくやっているから大丈夫ですよ。案外そういうものです、離婚って」
私が特段気にしている様子でないのを見て、周りにいた人々は安心したようだった。別のフレンドの、じゃあ恋愛相談はユキカゼさんにすればいいか、という言葉を最後に、話題は他のカップルのものに移っていった。
ここはVRChatというゲームの中。プレイヤーはバーチャル空間で世界中の人との交流を楽しむことができる。私もその一人で、今日は仕事を終えたあとログインし、湖畔のロッジを模したワールドでフレンドと雑談をしていた。
このインスタンスはFriend+で建てられていた。Friend+とはその部屋にいる人のフレンドなら誰でも入ってこられる場所で、初対面の人と出会うことも少なくない。私は彼らとまず名刺交換代わりにフレンドになり、共通の友人を介して話しはじめた。話題は最初は1人が運営しているイベントのことだったが、次第に現実のニュースに移り、最後には恋バナになった。さまざまな年代と性別のひとがいるVRChatでも、やはり関心を集めるのは恋愛のことらしい。そこは現実と変わりなかった。
先ほどの返答の半分は本当で、半分は嘘だった。けれどもそれを、打ち明けられるひとはVRChatにはいない。いくらここが多くの人々の心のよりどころで、深いトラウマさえ受け入れてもらえる場所で、実際にそれを共有する関係がそこここで結ばれてはいても、それは私には叶わないものだった。私が過去に置き去りにしてきてしまったものだった。
そんな私の内面を、フレンドたちが知ることはない。私はただのサラリーマン。ガジェットが好きでさまざまな機器を試すうちに、VRに出会った中年の男。特別な趣味も才能も持たない私は、この世界で人々の間を漂う存在でいた。それでよかった。ひとと強く結びつくことにはリスクが伴う。裏切られるのが恐ろしいのではない。傷つくことに耐えられないのではない。私が恐れていたのは、その逆だった。
「ユキカゼさん、最近話題のこのワールド知ってますか?」
フレンドの声で私は現実に引き戻される。目の前には青空と砂浜を映したポータルが浮いていた。インスタンスの中心人物が去り、会話がひと段落した彼らは、残ったメンバーでワールド巡りをしようとしているところだった。
「雰囲気よくて、謎解き要素もあるらしいんです。よかったらユキカゼさんも行きませんか?」
私はさりげなく腕時計を見る。就寝予定時刻までには1時間あった。ワールド1つくらいなら回れるだろう。
「はい。まだ時間があるので行きます」
フレンドが次々とそのポータルに消えていく。私も彼らに続いて、ポータルに飛び込んだ。
視界が暗転する。私はそのときふと、懐かしい潮香を嗅いだ気がした。
どこまでも澄み渡る青空。ベージュ色の砂浜と、エメラルドの海。打ち寄せる波は穏やかで、海水はガラスのように透き通っている。遠くかすむ水平線は、向こうから船でもやってきそうな淡い期待を抱かせた。
「きれいなところですね。でもあんまりわざとらしくなくて、実際にこういう海岸ありそうです」
フレンドの1人が邪気のない声で言った。他のフレンドたちも似たような感想を述べている。そして海水の中に足を浸したり、だだっ広い砂浜を駆けまわったりしていた。
私はそれどころではなかった。最初に訪れたのは強い衝撃。そして混乱。私は状況を把握するために、あたりをぐるぐると見まわした。
なんだここは。私はこの場所を知っている。この場所にいたことがある。どうしてこの場所を知っている。何かの偶然だろうか? 私と故郷を同じくする人間の作ったワールドか?
周囲を確認するうちに、まさかという疑惑は確信に変わる。確かにここは私の故郷の海を模したワールドだった。それだけならまだよかった。私を動揺させたのはそれではない。問題は、そのディティールだ。
遠くに見える駐車場に停まった車に乗った記憶があった。車道に上る階段に置き去りにされた文庫本を見た覚えがあった。フレンドが波打ち際で持ち上げている麦わら帽子は誰のものだろう。ああ、それは間違いなく。
私の知らないものもあった。砂の城の周りに散らばったおもちゃ。子供の靴。ピクニックシートとお弁当箱。いつ来ても足を洗えるように、砂浜の隅に設置された水道。
やめてくれ。やめてくれ。
手に入らなかった未来を見せないでくれ。私の犯した罪を並べないでくれ。
「ユキカゼさん? どうかしましたか?」
フレンドの声に私は我に帰り、やっとのことで、大丈夫です、とだけ言った。彼は心配そうに眉を下げ何かを言いかけたが、別のフレンドに呼ばれるとそちらを振り向いた。
「丘の上に家があるよ。たぶんこれが謎解きだと思う」
車道に上ったフレンドが声をかけると、みなが彼の周りに集まった。彼らは林の中、坂を上っていく。私もこみ上げる吐き気を抑えながら、彼らの後を追った。
松林を抜け、その家が見えてくる。
私は言葉を失った。
開けた視界に映ったのは、広い芝生の庭と平屋建ての家。
その家に、見覚えがあった。
彼女がいつか不動産屋のチラシを見せながら、こんな家に住みたい、と言っていたのを、思い出した。
「この鍵か。なんだろう、結構アイテムが散らばってたから、それがヒントかな?」
「暗示的だったもんね。どこかに書いてある可能性もあるけど」
「ばらけて一通り探してみよう。散開!」
1人の号令に従い、みながパスワードを探しに方々へ散る。私だけがそこに立ち尽くし、真新しい白い壁とグレーの屋根を、見上げていた。
いったい、なんの冗談だ。
震える手でメニューを開き、ワールドの作者名を確認する。数字を連ねただけの凡庸な名前。プロフィール画像にはUnityのSceneウィンドウに映る虚空が表示されている。これらから作者を特定するのは不可能だった。
何かの偶然だとしたら、なんという確率。
二度と会うことはないと思っていた。
彼女は最後まで、私との面会を断ったのだから。
どこにいて、何をしているのと聞くまでもない。
このワールドが彼女の答えだったからだ。
ふと、背後を振り返る。庭の前で林が開け、眼前にはあの青い海が横たわっていた。
海を見ている?
私はもう一度家を見る。その窓は固く閉ざされ、こちらの景色を反射して向こう側を透かすことはない。
「そこにいるのか?」
当然答えはない。このインスタンスはFriendで開かれている。作者や、ほかの人物など、いるはずがなかった。
そのとき、私は数十秒前に見た映像を思い出した。
再びメニューを開き、ワールドの作者名をクリックする。
さきほどは混乱していて認識できなかったが、いまならはっきりと確かめられる。
私は決意すると、近くを通りがかったフレンドにワールド移動する旨を伝え、そのPublicインスタンスに移動した。
0.0MBのロードはすぐ終わる。
再び現れた海岸の景色には目もくれず、私は丘の上の家を目指した。
ドアの前に立つ。錠を持ち上げ、そこに表示されたキーボードの中のアルファベットをクリックしていく。
このワールドの作者は意地悪だ。
パスワードのヒントはこのワールドの中にはない。
誰にも解かせる気はなかったのだ。
私以外には。
すべての文字を打ち終えると、かちゃり、と音がして錠が外れた。ドアはひとりでに開かれる。入室を告げるベルが鳴る。
「おかえりなさい」
中から女性の柔らかな声が聞こえた。
私はゆっくりと、無言で玄関をくぐった。
壁など取り払われた部屋がいい、と彼女は言っていた。その言葉通り、一軒家の中ではキッチンも、ダイニングも、リビングも、寝室さえつながっていた。
ダイニングテーブルに座っていた女性が立ちあがる。こちらを向き、笑顔で言う。
「きっと来てくれると信じていた」
彼女はフリルのたっぷりついた水色のドレスを着ていた。少女趣味なところは今でも変わらないらしい。
「ここで何をしていた」
彼女は眉を八の字に曲げた。
「そんな当たり前のことを聞かないで。あなたを待っていたのよ。あなたの帰りを、ずっと、ずっと」
「ここは私の家ではない」
そう言って私は家の中を見回す。白い壁。胡桃色のフローリング。深緑色のソファ。テーブルには花束が飾られていた。彼女が望んでいた暮らし。いつか二人で夢見た日常。
私のせいで、永遠に失われたもの。
「そんな顔をしないで」
彼女が近づいてきて、私の頬を撫でた。私はその手を避けた。彼女は悲しそうな顔をする。
「ここに足りないものなんてないの。私はいま、とても幸せよ。あの子がいるし、あなただって帰ってきてくれた」
そう言って彼女が指したソファには、一体のアバターが座っていた。
彼女と同じ水色のフリルシャツをまとい、ひざ丈のズボンをはいた、少年とも少女とも呼べない中性的な姿。端正な顔立ちで、年のころは10を過ぎているだろう。彼、もしくは彼女は本のページをめくったり、ローテーブルからティーカップを持ち上げて飲んだりするアニメーションを繰り返していた。
硬直する私を見て、彼女が微笑む。
「私たちの子どもよ。どう、かわいいでしょう? 一からモデリングしたの。やっぱりそれが、母親になるということだと思って」
「私たちの子どもは死んだ」
彼女は笑顔のままだ。私は声の震えを抑えながら、低く言った。
「君が妊娠したとき、私には君たちを養う能力がなかった。だから君に中絶手術を受けさせた。その後遺症で君は二度と子供を産めない体になり、私と別れた」
「そうよ」
あっさりと彼女は認めた。彼女は同じ動きを繰り返すアバターの元へ行き、その頭を撫でる。
「でも、それがなんだというの? 確かにあのとき私たちの子どもは死んでしまった。でも、それは物質的世界で起こった話。リアルでは妊娠の叶わない体でも、バーチャルの中でなら子どもを作ることができる。この子は私がデザインしたし、細胞であるポリゴンも一つ一つつなげたのよ。この子の出来が不満かしら?」
「それは本質ではない。仮想現実の、現実の部分が欠落している」
彼女は黙って私を見上げた。
「君はその子の声を聞いたことがあるか? その子が自ら笑う姿を見たことがあるか? なにかを達成したときに褒めたり、危ない目に遭わないか注意したり、その生命が広い世界で羽ばたけるよう育てたことがあったか? そのアバターは、器だ。誰かが着ればそこに魂が宿るかもしれない。でも君は、この子のデータをひとに渡したりはしていないんだろう」
「ええ、そうよ」
硬質な響きで彼女は言った。私はこぶしを握り締める。
「なら、その子は生きていない。生命ではない。たしかに君の心には、その子の精神が投影されているのかもしれない。でも、それだけなんだよ。その子は創作物だ。自由意志を持っていない。卵の殻の中で美しいままあり続けるだけの、成長も挫折も経験しない、ただの物なんだよ」
「黙って」
彼女は鋭い声で言った。立ち上がり、デフォルトの表情で私に迫る。
「それをほかでもないあなたが言うの? 私からこの子を奪ったあなたが? 手術の日だって私のそばにいてくれなかった。そんなあなたが私たちを否定するの?」
私は一度ソファに座ったアバターを見て、再び彼女の目を見つめ返した。
「ああ。否定する。間違っていると思ったらはっきり言う。それが今の私が君に果たせる義理で、かつて君の家族だった男がすべきことだと思うからだ」
彼女が悲痛なうめき声を上げる。
「どうして否定ばかりするの? 私はただこの子をかわいいと、この海が、この家が、美しいと言ってくれたらそれでよかったのに」
「君のそれは本心か?」
「そうよ。私は二人で愛した景色を再現したいと思った。生まれる前に死んでしまった子に形を与えたかった。そうしていつか、あなたが見つけてくれるのを待っていた。広い世界でも、高いところからなら遠くまで見渡せる。そこで必ず会えると信じていた」
私は大きく首を振り、唇を開いた。
「違う。君がしているのは私への復讐だ。君はこのワールドを私に見せて、罪の意識を思い出させたかったんだ。君がこのワールドとその子に注いだのは愛ではない。私への憎悪なんだよ」
長い沈黙があった。彼女はほとんど動かなかった。窓の外から小鳥のさえずりが聞こえる。穏やかな午後の光が白いカーテンを透かして室内を照らしている。子どものアバターはお茶を飲み続けている。
ここにあるものすべてが、私を責めさいなんでいる。
「馬鹿じゃないの」
ぽつりと、彼女が言った。その声には激しい怒りが滲んでいた。彼女の手が私を指す。
「あなたに何が分かるって言うの。あなたはこのワールドを見てもそんなことしか感じ取れないのね。それはあなたの心が醜いからよ。もういい。分からずや。これで永遠に、さよならよ」
私に見えないボタンをクリックしようとした彼女の手。私はその手に、自分の手を重ねる。
「私はまだ、君を愛しているよ」
彼女の動きが止まる。私は彼女の肩に手を置いた。彼女がその手を見つめた。私は視線を合わせ、いつか故郷の話をしたように、彼女に語り掛けた。
「もっといい家に住ませてやりたかったし、たまには料理を作ってあげたかった。毎週花を買って帰りたかったし、海ばかりじゃなくて、刺激的なところに連れて行きたかった。もっと早く帰ってきて君の話を聞いて、君を抱いて眠りたかった。そんなふうに、毎日毎日、過ごしたかった。そんなふうに、毎日毎日、悔やんでいるよ」
私は彼女を抱きしめる。彼女は黙った、ままでいる。
「君のワールドはきれいだ。君の子どもだというアバターもかわいい。でもそれは君の感情とは関係のないことで、本当は君から切り離されて、みんなに見てもらうべきものなんだよ。
どんなに私を憎んでもいい。私との思い出を嫌ってもいい。その感情は君だけのものだ。君のかけがえのない一部で、誰にも否定させはしない。
でもこの子には、広い世界を見せてやってくれ。私はこの子が、誰を愛したり誰かから愛されたりするところを見てみたい」
はじめはちいさなすすり泣きだった。それは徐々にボリュームを上げ、彼女は幼い子のように泣いた。その瞬間、私の中で何かが決壊した。
「ごめん。守れなくてごめん。死なせてしまってごめん。傷つけてしまってごめん。全部、全部俺のせいだ。俺が悪かった。俺を許してくれ」
「私もごめんなさい」
彼女は濡れた声で息継ぎをするように、言葉を紡いだ。
「狭いアパートでも幸せだった。あなたと見る海が好きだった。食事の時間だけでも話せるのが嬉しかった。あの子が死んでしまったとき、あなたが悪くないのを知っていた。でも、私には無理だったの。あなたとなら大丈夫って言えなくてごめんなさい。ずっとずっと、謝りたかったの」
「分かるよ。全部、知ってるよ」
私たちは互いを抱いて謝り続けた。片方が泣き止んでもう片方を慰めれば、慰めている方がまた泣くということを繰り返した。10年前にすべきだったこと。やっと、やっと、この世界でできた。あの海が私たちをつないでくれた。
午後の光はいつまでも、抱き合う二人を照らしていた。
「これからどうするんだ?」
「しばらくは考える。でも、この部屋に入るパスワードは変えるし、この子もまずはTwitterに、あげてみようと思う」
「それがいい」
「また来てくれる?」
「それはどうかな。やっぱりここが胸を刺す場所であることに変わりはないよ」
「じゃあ、新しいワールドを作るわ。あなたに楽しんでもらえるようなワールドを」
「ありがとう。そのときはフレンドを連れてくるよ」
「待ってるわね。これからはたくさんのひとと交流したい。この子がほかのひとに着られているところも、見てみたい」
「それはとても楽しみだ。なぁ、この子笑ってないか?」
「本当ね。とってもかわいい」
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