花束を君に

noteより再掲

 何度目かの包丁を振り下ろしたとき、彼がすでに息絶えていることに気づいた。

 日曜日の午前。窓からは白いカーテンを透かして光が差し込み、床に広がった血を鮮やかに照らしている。テレビから流れているのは、彼が読書のBGMにと選んだクラッシックメドレーだ。ちょうど、パッヘルベルのカノンが流れているところだった。彼との結婚式では、彼が好きだと言っていたこの曲を、流そうと思っていたのを、ぼんやりと、思い出した。

 救急車を呼ばなければならない、と思った。同時に、彼はそんなことを望んでいない、とも。答えを求めて、二度と声を発しない唇を見つめる。穏やかな死に顔だ。何度も眺めた愛おしい面差しに、ほとんど無意識に手を伸ばした。

 柔らかな頬に触れる。すでにつめたい。そういえば、彼に自ら触れたのは、これが初めてだ。

「愛してるよ」

 思わず漏れた言葉は、きっと彼の耳には届いていない。私は安堵して、それから少しだけ、泣いた。

Vision

麻島葵主宰「にんぎょのくるぶし」による小説 本サイトの小説は条件付きで朗読可能です。 ○Skebでのボイスデータ依頼 ○配信、朗読会など金銭のやりとりの発生しない場での朗読 ×朗読したデータを販売する行為 ×有料配信、有料公演

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