Distance
本当はその首を絞めたかった。
腫れあがるほど顔を殴り、胴を蹴り上げ、細いあばら骨を折りたかった。
バスタブに沈め、あるいは灯油をかけて火を点け、もしくは包丁で胸をめった刺しにしたかった。
そうして私もいっしょに死にたかった。
けれども私はそれをできない。彼は目の前にいるのに、私の手の届かないところにいる。
ここはVR空間だからだ。事実上会っているとはいっても、所詮は仮想現実。HMDを外せば彼の姿を見ることも、声を聞くこともできない。私は彼の本当の名前さえ知らない。
だから、この電気信号のつながりが切れれば、すべては終わり。彼は私にとって、死んだも同然の人間になる。
お砂糖相手の浮気。自分に恋人はいない、いつか会って私と肌を重ねたいと囁きながら、実際には毎晩男に抱かれていた。
そんなこと、知らなかった。知りたくなかった。
彼も、一生私に知らせるつもりはなかった。VRとリアルを切り離したまま、すべてを円満に回していた。彼は私が思う以上に器用な人間だった。お砂糖になりたてのころ、簡単な嘘がばれて謝罪したのは、彼なりの計算、カモフラージュだったのだろう。誰も気づかなかった。周囲のフレンドさえ、彼の偽りの人物像に騙されていた。
「いい夢見させてあげたんだからありがたいと思ってよね」
耳障りな声で鳴くこの少女は一体誰なのだろう、と思いながら、私はこの会話がはじまるまでのできごとを、夢のように思い出していた。
きっかけは些細なことだった。彼が夕方、先ほどまで参加していたというリアル脱出ゲームの写真をツイートして、ほどなくしてそれを削除した。彼はすぐに、アカウント間違えた、とつぶやいて、そのツイートも削除した。私は彼がツイートをすると通知が来るように設定している。私は詳細が気になって、一瞬見えたイベント名で検索をかけた。
イベントで撮られたと思わしき画像はすぐに見つかった。地方の小さなイベントだったのだろう、おそらくほとんどの参加者がゲームをクリアした記念写真を見ることができた。私は、もしかしたら彼のサブアカウントが見つかるかもしれない、という興味から、画面をスクロールした。
その中で、1枚の写真が目に留まった。
写っているのは二人の男。背の低い方に見覚えがあった。もちろん顔は加工で隠されている。しかしその全体の雰囲気とディティールに、既視感があった。
背の低い男は、お砂糖相手が自撮りの中で着ていた服を着ていた。そうして同じ形の耳をして、同じ数のピアスホールを開けていた。
その記念写真を投稿していたのがお砂糖相手のサブアカウントであることは、プロフィールを遡ればすぐに明らかになった。彼がVRCアカウントで、たとえばケーキや旅行先の写真を投稿したのと同じ日に、同じ写真を投稿していたからだ。
知るのがそれだけならよかった。私の知らない彼がいるということはさみしいが、それは彼が一人の自由な人間として生きているということだからだ。
問題なのは、そこではない。
彼の傍らには、いつも男がいた。
あの記念写真に写っていたもう一人の男。プロフィールとツイートによると、彼はその男と一緒に住んでいるのだという。同性のパートナーで、親同士顔見知りの、家計も共有している、事実婚の状態なのだという。
彼が日常のすべてを明け透けに書いていたわけではない。ただ私がお砂糖相手への興味から、膨大な量のツイートを、他のアカウントへの返信まで含めて、つまびらかに読んだというだけだ。
頭の中で、自分の絶叫がこだまするのを聞いていた。喉の奥が酸っぱく、マウスを握りしめる手には青筋が浮いている。
間違いない。彼は男と浮気をしている。いや、この場合。
間男なのは私のほうだった。私が寝取った。私が浮気相手だった。私が二人の関係を、壊しうる、要因である。
私は椅子から転げ落ち、しばらく床に横臥していた。ようやく体の痛みを思い出して起き上がったとき、お砂糖相手と通話をする約束の時間を大幅に過ぎていた。Discordには、お砂糖相手から安否を気遣うメールが届いていた。
私は燃え上がるような怒りの中、同時に頭の芯がどこまでも冷えていくのを感じた。その部分で、これからどうすべきか考えていた。
メールで証拠を突きつけたのでは無視されてしまうかもしれない。公の場で指摘すれば逃げられないだろうが、それは最後の手段だ。できる限り穏便に事を収めたい。
ならば会って話をするのがいいだろう。今までふたりの間に生じた様々な問題を、そうやって解決してきたように。
VRChatで。私たちがあらゆる言葉を交わした場所で。
生まれてはじめて恋をした。彼は私の暗い過去を聞き、朝まで抱きしめたままでいてくれた。彼といっしょにたくさんの景色を見た。なんでもないことで笑って、誰にも話したことがないことを打ち明けた。ずっとずっとそんな日常が、続いていくのだと信じていた。
今日までは。生まれた圧倒的な疑念は私たちの幸せを壊すかもしれない。しかし、このままでいるわけにはいかない。私の知っている彼なら、私の誠意に応えてくれるはず。私の愛する彼なら、自らの過ちを認めて、私と真っすぐに向き合ってくれるはず。
私はDiscordの画面を開き、彼に約束の時間に遅れたことを詫び、今からVRCで会えないかとメールした。さみしがりやな彼はすぐに快諾の返信をよこした。私は長くなるであろう話し合いに向け、水を取りに席を立った。
別れたくはないと、切々と訴えた。
彼も最初は泣いていた。私は怒っていたが、途中からつられて泣きだした。
やはり愛している。だから別れてくれ。そうすれば君の犯したすべてを許すことができる。
私がそう言ったとき。彼の態度が豹変した。
「私にはあなたに許してもらう必要なんかない。あなたが私がひとと住んでいることが気に入らないなら、あなたと別れるだけ。あなたは所詮お砂糖。リアルのあの人には、敵わない」
目の前にいる少女は誰だろう、と思った。こんな冷たい言葉を、彼の声で発するな。そんな侮蔑のまなざしを、彼のアバターで向けるな。
そこにいるべきは私のお砂糖相手であって、お前ではない。男と住んでいる、私を拒絶する、私を愛さない、お前なんかでは!
リアルの私は唾を飛ばして怒鳴った。しかし彼は、彼の姿をしたものは、ハンドサインを入力しない素の表情で、言い放った。
「あんたなんか誰も愛するわけないだろ。あんただって言ってたじゃん、こんな自分が愛されるのは不思議だって。いい加減夢から醒めなよ。ここはバーチャル。リアルには及ばない。私たちには、到底、及ばない」
私は彼を殴った。アバターの腕が、ポリゴンの胸を通過した。彼は笑っていた。その手がメニューを開いたのが分かった。
それだけはやめてくれ。
私の最後の声は届いただろうか。
美しい少女の姿は忽然と消えていた。このインスタンスには私だけ。この世界にも、私だけのような、気がした。
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