Library
雨が降り続いている。
一年前にパンデミックに襲われた街は今や人影一つなく、かつて市民が行き交った駅前も雑草と蔦、錆と泥に覆われて自然に還りつつある。
先ほど、木のように倒れた電柱を跨いだ。歩道では風で飛ばされたと思わしき看板を見かけることも珍しくない。整備されていない道はこれほど歩きにくいのかと驚く。それは山の中でも同じだが、街中ではうち捨てられた人工物がいっそう強くそう感じさせた。
視界を曇らせ、体温を奪う雨が降り続いている中ではなおのこと――。
「先輩。あれじゃないすか、目当ての図書館」
隣を歩く赤間が、手袋に覆われた指先から雨滴を垂らしながら前方を指す。彼は私より視力がいい。
白い霧に目をこらせば、円形の屋根を持つ大きな建物が見えた。
「……あれね。情報が正しければ、明理がいる」
私の声に期待が滲むのとは裏腹に、赤間は不審そうな声を出す。
「先輩に意見したいわけじゃないすけどね、情報が曖昧すぎやしませんか? 茶色い髪で、身長が低くて、制服を着てる、くらいでしょ? 共通点。そんなやつ、どこにでもいますって」
だから希望は持たないほうがいい、という優しさを込めている……とは赤間の場合考えにくい。彼は見た目どおりのヤンキーで、直情的な性格なのだ。
どちらかといえば、この雨の中そのへんの建物に引っ込むことをせず、少し先の図書館に向かうことに面倒くささを感じているのだろう。
私に対して隠し事ができないのは、彼のいいところだ。
「少しでも明理がいる可能性があればそれに賭けたい。向こうもきっと同じことをしている」
荷物を背負い直し、力強く歩き出す足下で雨水が跳ねた。背後から赤間の気の抜けた声がする。
「先輩、アカリサンのことになると見境ないすよね。そういうところも嫌いじゃないすけど」
本当に、正直な男だ。
円形の屋根が近づいてくる。建物の入り口に刻まれた市立図書館の文字が読めるようになった距離で、ようやくなにかを燃やしているにおいに気がついた。
「私が先に行くわ」
自転車置き場のそばで、すでに銃把を握っている赤間に声をかける。
「相手が誰であれ、交戦の意志はないことを示す。万が一の場合は、赤間くんお願い」
赤間の眉が跳ねたのは一瞬のことで、すぐにいつも通り、「分かりましたよ」と頷いた。
私はレインコートのフードを脱ぎ、暗い館内に足を踏み入れる。
虫干しされていない本が放つかび臭さこそ鼻につくものの、よくある廃墟と異なりこの図書館には大きく荒らされた痕はなかった。
本の状態を保つ司書はいない。しかし、無法者が立ち入ることを許さない守護者はいるのだろう。
私の友達が、そこまで強いとは考えにくいけれど。
もしかしたら味方がいて、その人が格段に強いのかもしれない。
どちらにせよ、今日は情報の正体を確かめに来た。
私に私らしさと、生き方の正解を教えてくれた大切な友達。彼女がここにいるという、不確かだけれど縋り付くしかない細い糸。
それをたぐって、ここまで――。
なにかを燃やすにおいが強くなる。たんぱく質が燃えるような、不快なものではない。薪ではなく、紙の? まさか、本。
赤間がついてきている気配を感じながら、建物の奥へ歩を進める。
書架の森を抜け、すっかり汚れた強化ガラスの扉を押して至ったのは、小さな中庭だった。
せり出した屋根の下で、小さな人影が焚き火を焚いている。
彼女が揺れる光の中に投げ込むのは、人類の知識が詰まった紙の束で――――。
「なにをしているの」
無防備な声で訊いた。
茶髪で、背が低く、着崩した制服を着た少女が答えた。
「暖を取っているの。お姉さん、本は好き?」
深い、深い失意に沈んだのは一瞬のことで、すぐに、体勢を立て直さなければならない、と私は目の前の少女を見据える。
「好きよ。あなたはそうじゃないみたいね」
少女が炎に照らされた肩をすくめる。彼女が座る椅子の傍らには文庫本が何冊も積まれていた。文庫本だ。薪にするには燃えにくく、非効率に感じる。
「決めつけなくてもいいでしょ、私だって本は好き。でも寒いんだからしょうがないじゃない」
「そうね。でも『かがみの孤城』は燃やすにはもったいないと思うわ」
私が文庫本の山のてっぺんを見て言うと、少女の声がわずかに弾んだ。
「読んだわよ。いい本よね」
「読んだ本を燃やしているの?」
「そう」
少女は明理とよく似た顔で、大きな鏡の描かれた表紙を手に取って眺める。
「本の価値って中身でしょ? それを頭に入れたあとなら、処分してもいいことにしてるの」
「市民が読むことが目的の図書館の本でなければ、同意したわ」
私の父は市長で、自分の書斎も、市の図書館も大事にしていた。友達の少ない私に、本がよき理解者となることを説いてくれた。
本がどんなに大事なものでも、生きるための熱や糧には代えられない。実用書であれば情報に、物語であればそれが起こす感動に価値があるのにも頷ける。
ただそれは本が自分の所有物であった場合の話だ。この場所を占有している少女は、ここに収められた本の所有者といえるかもしれない。
しかし、二度と紙の本が印刷されない世界で、それらに不可逆な破壊を加えるのは、浅慮が過ぎるのではないか。
「頭が固いのね」
少女は口元を本で隠し、私を見上げた。
「よく言われるわ」
事実なので腹の立てようがない。しかし、少女の次の問いには即答せざるを得なかった。
「お友達がいなさそう、とは?」
「いるわ」
あなたとよく似た姿の友達が。会ってみたら全然似ていなかったけれど。
「ああ、さっきからこっちを警戒してるお友達が一人いたわね……」
「あれは後輩よ」
あれって、と少女がため息を吐く。彼女の視線が正確に赤間の隠れている位置を捉えていることに気づき、私は普段のペースを取り戻した。
「人捜しに来たの。でも、人違いだったみたい。邪魔したわね」
踵を返そうとしたが、少女に明るく呼び止められる。
「気にしないで。しばらく止みそうにないし、後輩さんも呼んで暖まっていきなよ」
一瞬の逡巡ののち、私は赤間を呼んだ。
険しい顔をしながら中庭に入ってきた彼に、「図書館では暴れないように」と伝える。赤間は、はぁと言って武器こそ下ろしたものの、やはり少女を警戒していた。
館内に交戦の痕がないなら、私と赤間がここに入れた時点で、彼女に危害を加える意志はなかったといえる。
どこからが彼女の縄張りだったのやら。
私が見たとき、少女は『かがみの孤城』を焚き火に投げ込んでいた。
あっと言う間もなかった。
目を丸くしている私に気がつくと、彼女は言った。
「久しぶりに本の話ができる人と会えて嬉しいわ。椅子を持ってくるから、待っていてね」
ガラス扉を開け、館内に去って行ってしまった。
中庭に私と赤間を残して。
「先輩の言ったとおり、おとなしくしてて正解だったっすね」
「堂々と火を焚いていたから、防御に自信があると思っただけよ」
運が悪ければ、身ぐるみ剥がされていた。今もその可能性がないとは言えないけれど。
危険を冒してでも、私は明理に会いたかったのだ。
「……会えると思ったんだけどな」
「なんか言いました?」
こちらを見る赤間の瞳が、初めて会ったころのようにあどけなかったので、私はつい笑ってしまった。
「なんでもない」
「お待たせ! ……ん? どうしたの見つめ合っちゃって」
いつの間にか、両手に椅子をぶら下げた少女が中庭に入ってきていた。咄嗟に赤間から目を逸らしたが、逆効果だったようだ。
「あ、友達じゃないってそういうこと」
ぼそりと呟いた彼女を、私はきっと睨み付けた。
「後輩よ」
「ふーん」
少女はにやにやと笑って、そのまま赤間に椅子を勧めた。
「てめぇ、先輩を困らせたら承知しねぇからな」
「アカマクンだっけ? そんなに先輩が大事なの?」
そりゃもう、と赤間は座ったばかりの椅子から立ち上がった。
「先輩は俺を初めて見てくれた人で、いつもかっこよくて、ずっと俺の憧れなんだよ。あんたよりたくさん本読んでるし、美人だし、たぶんすごいリーダーになるぜ。いや、俺がするんだ、絶対」
少女が絶妙な相づちを打つのに乗せられ、滑らかにまくし立てた赤間は、そこまで言うと満足げに腰を下ろした。
少女が、にんまりと笑ってこちらを見る。
「愛されてるねぇ、先輩」
「どういたしまして」
バカは放っておくとして。
着席した私は、美しく背筋を伸ばして対面の少女を見た。
「私は高宮涼香。こちらはそう、赤間くん。あなたは?」
「私はカナ。苗字は何度も変わってるから、カナって呼んで」
椅子を運んで暑くなったのか、彼女はワイシャツの胸元をつかんで扇ぐ。
その下に、蓮の花の入れ墨が見えた。
「ふーん。その明理さんを探して、この図書館に来たの」
カナは取り上げた本をぱらぱらとめくりながら話を聞いている。私と赤間は依然として彼女から視線を外さない。雨は止む気配がなく、こちらを監視していると思われるカナの仲間の気配を隠している。
「そう。明理は本を読まないから、不釣り合いだと思ったけど。でも確かめないわけにはいかなかったの」
「大事なお友達なのね」
カナが色素の薄い目を上げて言った。私は、そうよ、と答えた。
カナがぶらぶらと文庫本を持った腕を揺らす。
「いいなぁ。私には友達がいないから。友情って羨ましい」
「……お仲間は多いようだけど」
少し探りを入れると、カナは目を細めた。
「私たちのような組織は利害関係で成り立っていることくらい予想がつくでしょ? 優等生さん」
隣で赤間が鼻息を荒くする。私はずっと気になっていたことを質問した。
「あなたはここ一帯の主のように見える。ただの警備要員なら館内に戦った形跡があるはずだし、保護もしくは軟禁されているなら、そんなに堂々と私たちを迎えられないはずよ」
「私のことが気になるの?」
「そう。私とそう歳の変わらない……学生のように見えるから」
あはは、これはね、と言ってカナはプリーツスカートの裾を持ち上げた。
「コスプレなの。私はほとんど高校に通えなかった。通いたかったけど、それどころじゃなかったの。パンデミックのせいじゃなくて、家がおかしかったから」
私は哀れみを込めてカナを見た。カナは無表情で文庫本を焚き火の中に放った。ビニールのカバーが燃えるにおいが鼻につく。
「悪いこといっぱいした。涼香が聞いたら耳を塞ぎたくなるようなことをね。あ、赤間くんは平気かもしれないけど」
赤間は脚を大きく開いて挑戦的な声を出す。
「先輩は強いんだ。不良にボコられてた俺を助けてくれた。お前の心配なんざ要らねぇよ」
ふうん、とカナが笑う。
「私は不良グループのリーダーだったの。カツアゲもしたし、クスリも流した。いちばん稼いだのは女子高生ビジネスかな? それでパクられたの」
言葉をなくす私に対し、赤間が嫌悪感もあらわに吐き捨てる。
「見上げた悪党だな。大方そのツラで周りをたぶらかしたんだろ」
「持って生まれたものは使わなきゃ損でしょ。……まぁ、少年院で散々絞られたけどね」
カナが焚き火に視線を落とす。その暗がりから意識を逸らすように、私は別の質問をした。
「本が好きと言ったわね。ここをアジトにしてから読むようになったの? それとも、順序が逆かしら」
んっとね、と少女が話し出す。本の話をするときは、年相応のあどけなさが顔に表れるらしい。
「パクられるまでは本を読んだことがなかったの。でも少年院って暇でさ、たくさん本を読んだ。それで結構人生観が変わったし、情報の重要性を理解するようになった。
院を出てすぐにパンデミックが起きて、昔の知り合いが集まってきてどうしようってときに、図書館でビジネスをすることを思いついたの。情報屋とは違った、生活の役に立ったり暇つぶしになったりする情報を売れば稼げるんじゃないかって。
その読みは当たって、それなりの所帯だけど他からの干渉を受けずに生き残れてる」
「商才があるのね」
本来公共のものである図書館を占拠しているのはさておき、カナが独自の方法で生活と組織を安定させていることには感心した。赤間も静かだ。
カナ本人ははにかむでもなく、片手で髪を梳きながら斜め上を見上げている。
「この辺りでは有名だと思うんだけど……涼香は明理さんだけに興味があったみたいだし、仕方ないか」
「明理は特別だから」
「いいなぁ」
事実を告げると、カナは優しい光を湛えた目を伏せた。
「パンデミック前も、友達はいなかった。いじめられていたの。家に帰るとお母さんはお金のことでお父さんと喧嘩ばかりしていた。
つるんでいた子たちはみんな同じような境遇だったけど、彼女たちといて楽しいと思ったことなかった。生きるのに必死だった」
「今でも必死?」
パンデミック以前のカナの私生活には同情すべき点があるとはいえ、その行いが多くの他人の人生を狂わせたのも本当だ。ただ、無関係の私が彼女を責めるのも違う。
私の短い問いかけに、彼女は傷ついた軍靴の先端を見つめながら答えた。
「別の意味で、必死かな。いつギャングや自衛団が攻めてくるか分からないし、気を許せる人なんていない」
ああでも、と彼女は白い歯を覗かせる。
「こんなに自分のことを話したのは、すごく久しぶりのことだな」
そして私を見つめて言った。
「明理さん、見つかるといいね」
そこに宿っていたのは純粋な願いだっただろう。
だから私も、唇の端を持ち上げた。
「あなたも、お友達ができるといいわね」
カナが私を見つめている。なにかを訴えたいような、しかしそれをためらう葛藤が読み取れた。
あともう数秒彼女がそうしていれば、私は問うていただろう――。
雨音を止めるように、遠くで銃声が鳴った。
カナの腰にあったトランシーバーに通信が入る。
「こちらカナ――」
私と赤間は立ち上がり、銃を構えた。続けざまに銃声。まだ館内ではないものの、激しさを増している。
「オーバー」
通信を終えたカナは、張り詰めた表情でカーディガンの下からハンドガンを抜く。立ち上がると、硬質な声で告げた。
「敵襲よ。多いみたい。裏口から逃げて」
中庭の入ってきたのとは反対側の扉を指す。私は依然として銃を構えた。
「手伝いはするわ」
「逃げましょうよ、先輩」
赤間は裏口に向けて一歩踏み出している。カナはしっかりとした口調で言った。
「生きて明理さんと会うんでしょ? ここに残って戦う必要はないわ」
「私は大好きな図書館を守りたいだけよ」
なぜそんな言葉が口から出たのか分からない。カナにも、もう彼女に所有権が移ってしまった図書館にも興味はないはずだ。カナの様子からしてここが危険なことは明らかである。
彼女と私は関係がない。ただ一時、一つの焚き火を囲んだだけだ。
それがどんなに私たちの縁を暖める行為だとしても――。
カナは得心した表情で、文庫本の山に手を伸ばした。
「そう。じゃあ、これを持っていって」
そこから一冊の本を抜き取って私に差し出す。本の山が崩れる。私は銃から片手を離して受け取った。
大きな鏡に映る、セーラー服の少女。彼女は鏡の中の自分を見つめている。
「かがみの孤城はヒット作品だから、蔵書が何冊もあったの。あなたはここから、この本を逃がして」
私はその文庫本を、バッグにしまいながら言った。
「頭が固いのね」
「涼香に言われたくないわ」
その言葉を皮切りに、私たちは別の方向に向けて走り出した。
中庭に降る雨に濡れ、赤間が開いたドアに入る直前、私は振り返った。
「カナ!」
カナはこちらを見ていた。胸から溢れ出す想いを、表す言葉が見つからない。
「どうか無事で」
雨滴のカーテンの向こうで、カナが笑う。
「涼香も、気をつけてね」
私は赤間とともに、図書館の裏口を探して走った。
案内表示はなかったが、途中すれ違ったカナの部下と思わしき男が道順を教えてくれた。
その間にも、銃撃の音は激しく、近くなっていた。
辿り着いた裏口から出るとき、周囲を警戒したが、こちら側にはカナの敵も味方もいなかった。
私と赤間は誰に見送られることもなく図書館を後にした。
雨が止んだのは、そのときのことだった。
その夜、近くの森林公園で図書館に火の手が上がるのを見た。
赤々と燃える炎は池のしぼみかけた蓮の花を照らし、生ぬるい風が私たちの鼻孔にいやなにおいを届けている。
もっと遠くへ逃げなければならない。光も風も、届かないところへ。
別れ際に寂しそうな笑顔を浮かべた少女が、孤独な魂の城を抜け出していることを願いながら、私は森の中を走り続けた。
二週間後。
カナの図書館から山一つ越えたところにある盆地の廃墟で、あの辺り一帯の支配者が変わったことを知った。
赤間が食料調達がてら情報を仕入れたのだ。
あの夜の蛮行が彼女たちの本拠地だけではなく、その生命まで奪ったかは分からない。
確かめに行くのは危険だし、その義理もない。
私たちは旅を続けるよりほかなかった。
目的はたった一つ、明理を見つけることだから。
冷夏に引き続いて涼しい秋の日、私と赤間は朽ちた公園のベンチで食事をしていた。
私は乾パンを三つ四つつまむと、もうそれ以上食べる気をなくしてしまった。最近の私たちの食事は乾パンばかりで、赤間もぼりぼりと口に運んではいるが、おいしく食べているという様子は一切ない。
水を飲み、手を払った私は、ふとよく晴れた空から雨滴が降るのを幻視した。
灰色の壁に囲まれた、中庭に降る雨。焚き火の中で燃える文庫本。
思い出したのは一瞬のことで、すぐに空から降ったものが頭上の梢から落ちた木の実だと気づく。
私は短く息を吐き、バッグからカナにもらった本を取り出した。
かつて含んだ湿気のために波打つそれをぱらぱらとめくる。開き癖のついているページの中で、ある台詞が目に留まった。
これをつけたのがカナであるという確証はない。
ただ、本を読んだ者は、本を通じて繋がる。同じ読者の存在を傍に感じる。
今もどこかで、カナが見ている気がして――。
「キレーだけど、寂しそうな女でしたね」
赤間の声に我に返り、隣を見た。彼は私の手にした本に視線をやり、複雑な表情をしている。食事はもう終えたらしい。
「そうね。……珍しいわね、赤間くんが別れた人のことを話すなんて」
「俺、なんかあの女のことが引っかかるんすよね」
本を閉じ、視線で問いかけると、赤間は小さく手を振って身を引いた。
「いや、先輩以外の女に興味があるわけじゃないすよ。ただ、成り上がっても楽しくなかったーって言ってたのが……なんか、いやだなって」
本心なのだろう、彼にしては珍しく、言葉を選んでいる。そしてそれらを口にしたことで、ダメージを負っているように見える。
私は乾いた指先で、つるつるとした本の表紙を撫でた。
「喜びを分かち合う人がいなかったのよ。彼女には立場と環境がそれを許さなかった」
「先輩には、アカリサンがいるすもんね」
少し明るく言ったのは、私が落ち込んでいるように見えたからだろうか。そうね、とほとんど独り言のように答える。
赤間はもじもじとして、くぐもった声で言った。
「俺には、先輩がいるし……」
私は曖昧に微笑む。
頬を掻き、赤間は骨張った手で膝を打った。
「ガラにもねぇこと言った。今の忘れてくださいっす」
覚えている、とは言わない。私と赤間くんはただの先輩と後輩で、彼は私に憧れてついてきているだけ。私も彼の強さを当てにしているだけだから。
私は覚えている。いつかあなたが目的を果たしたときのために。あなたは孤独ではないと教えられるように。
私はバッグに本をしまい、立ち上がった。
「旅を続けましょう。歩き続けていれば、私たちの探しているものが見つかるはずよ」
赤間もくしゃりと笑い、腰を上げる。
「そうっすね。あーあ、久しぶりに大和煮が食いてぇな」
「じゃあ、スーパーマーケットを探しましょうか」
「いいっすね。でっけぇジャスコ見つけましょう!」
「今時ジャスコは言わないわよ……」
歩き出した私たちの行く手に、青い空が広がっている。
踏む落ち葉は乾いて、足取りを重くすることはない。
世界は続いていく。私たちが生きている限り。
降り注ぐ秋の陽光は、そのどこかで待っているはずの友達のように、明るかった。
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