Family

 ドアの前にいる。

 マンションの廊下は埃っぽく、電気などもちろん通っていないため暗い。私がのぞき穴にチューインガムを貼らなかったところで、中から外は見えづらいだろう。

 しかし、私はそうした。以前見た映画の中で殺し屋を手伝う少女がそうしていたし、実際中にいるターゲットは、高校生の年齢と服装である私を見たら警戒するだろうから。

 遊佐がドアチェーンを切るための大型のニッパーを構えているのを確かめ、私は高く舌足らずな声を作って呼びかける。

「こんにちはー、誰かいませんかー」

「誰だ」

 しわがれた男の声が中から聞こえた。当然、こちらを警戒している。遊佐――軍服を着て、その戦果を物語る傷を顔に刻んだ三十路ほどの男――が、ジェスチャーで、続けろ、と言う。

「マリって言うの。中に入れてください」

「……。外が暗い。なにが起きている」

 電気が切れているのは当然だ。映画のようには行かない。私は情報屋から聞いたこの男のプロフィールを思い出す。

「わかんない。お腹が空いたの。ここに来れば優しいおじさんがごはんをくれるって聞いた」

 張り詰めた沈黙の後、男の声が応えた。

「待ってろ、今開ける」

 私はドアから離れる。チェーンが触れ合う音がして、ドアが開く。

 中から光が差し込む。

 男の顔がドアの隙間に覗いた瞬間、遊佐は伸びたチェーンを切った。

 男が銃を取り出すよりも早く、ニッパーを放った遊佐が部屋に押し入り、くすんだ壁に男の背を叩きつけていた。

 そのまま銃口を彼の頭に突きつける。

「動くな。動いたら撃つ」

 私は遊佐の後を追って部屋に入った。

 部屋は日光の差し込む広いリビングだった。この世界にあっては珍しく、平和な生活が営まれていることが窺える。

 銃口を突きつけられた男と、その隅で身を寄せ合うようにして震えている四人の子供たちがいることを除けば。

 男はプロフィールにあったとおり四十歳ほどに見えたが、それはよく伸びた背筋と体格の良さに因るものだ。落ちくぼんだ目と眉間の深い皺を間近で見れば、五十代にも見える。

 身なりは良く、アイロンこそされていないものの洗濯されたシャツとパンツを身につけている。

 それが彼にとっての、良い父親像なのだろう。

『父親』の表情に恐怖はなく、強い憎しみを込めて遊佐を睨んでいた。

 肝心の保護対象である彼の『子供たち』は、小学生ほどの年齢の男の子と女の子がそれぞれ二人だった。

 容姿はまったく似ていないが、全員服装を整えられている。悲鳴一つ上げられず、逃げ出すこともできないのは、単に侵入者が現れたことだけに因るものではない気がした。

 私は武器を持っていない手を広げて彼らに笑顔で近づく。

「もう大丈夫。お姉ちゃんたちは君たちを助けに来たの」

 なおも怯えた表情をする彼らの視線は、私の背後に向いている。

 私が遊佐を振り返ると、彼は頷いて男に突きつけた銃口を振り、男をマンションの部屋の外に移動させた。

 男と遊佐の姿が見えなくなる。厚いドアが閉まる。

 低い声の問答を、聞き取ることはできない。

 小さな銃声が、二回響く。

「もう大丈夫だから」

 繰り返すと、一人の子供が泣き出した。

 それを皮切りに、他の子供たちもしゃくり声を上げる。

「よしよし。お父さんとお母さんのところに帰ろうね」

 両腕を広げて彼らを抱きしめる私の鼻の奥も、熱くなった。


 私は子供たちをあやしながら、改めてこの部屋の様子を確かめる。

 リビングはダイニングキッチンと一体で、調理器具がよく整頓されていた。七輪と水耕栽培の野菜があることから、ここでの食事は充実していたことが窺える。現在の地上でこのレベルの生活を送る者は珍しい。

 広いリビングの中央にはダイニングテーブルが置かれ、そばにはおもちゃやクレヨンが散らばっていた。それらを片付けるためのおもちゃ箱や、児童書の収まった本棚もある。

 男なりに、攫ってきた子供たちを楽しませるための工夫を凝らしていたらしい。

 子供たちは痩せてはいたものの、髪や肌を見るに、一般的な難民キャンプにいる子供たちより栄養状態がよさそうだ。暴行の痕もない。

 しかし、そうして子供たちのために環境を整えたところで、男の苦労は実を結ばなかった。

 子供たちは怖かったと言い、元いた難民キャンプで親たちが待っていることを告げると、安堵の表情をこぼした。

「仏さんは別の部屋に移動させた。子供たちに準備をさせろ。撤収する」

 リビングに戻ってきた遊佐が私に言った。

「分かった。遊佐さん、お疲れさま」

「明理もよくやった。お前のおかげでスムーズに部屋に入れた」

 彼はニッと笑い、上着のポケットをまさぐったが、すぐにその手を下ろした。そこには煙草が入っていることを知っている。

「おじさん、悪いおじさんをやっつけてくれて、ありがとう」

 女の子が一人、遊佐に向かって言った。声は震えているが、突如として現れたヒーローに感謝を伝えずにはいられない様子だ。

「おう。お前らもよく頑張った」

 もう三人の子供たちに群がられ、遊佐は照れくさそうに頭を掻く。私の頬にも、自然に笑みが浮かんだ。

「みんな、お父さんとお母さんのところに帰るよ。自分の持ち物をまとめてね」  

 立ち上がり子供たちに呼びかけると、みんなあどけない返事をして、めいめい部屋の中に散っていった。

 入れ替わり、近づいて来た遊佐が小さな声で告げる。

「先にも言ったが、帰り道はいっそう気をつけろ。エマのところまで無傷で子供たちを運ばにゃならん。俺一人ではすべての危険に対応できないかもしれない」

 私は彼を見上げ、胸に拳を当てた。

「任せて、遊佐さん。いざとなったら私も……頑張るから」

 そうして腿にあるホルスターに触れる。そこには『交渉のための』道具が収められていた。そちらをちらりと見た遊佐が、目を細めて私の肩を叩く。

「無理するなよ、相棒」

 大きな手を放すと、彼は部屋の中を見回した。

「軽くここの物資を引き上げさせてもらおう。食料が充実していそうだ」

「分かった」

 私が頷いた直後、袖を下方向に軽く引っ張られた。

「お姉ちゃん」

 幼い声に振り返ると、男の子の大きな瞳と目が合った。私は少しかがんで彼の顔を覗き込む。

「どうしたの?」

「おと……おじさんに取られたおもちゃが見つからないの。お母さんがくれたの。たぶん、おじさんの部屋にあると思う」

 彼の不安を吹き飛ばすように、私は力強く笑った。

「お姉ちゃんもいっしょに探すよ。おじさんの部屋まで案内して」

「うん!」

 遊佐を振り返ると、行ってやれ、と手を振られた。頷いて、男の子の後を追う。

 薄暗い廊下に出ると、男の子はリビングの隣の部屋の前で立ち止まっていた。一人でドアに入るのは怖いらしい。自分たちを攫った男のものなら当然だ。

「ここなんだね、お姉ちゃんがいるから大丈夫。入ってみよう」

 そうして入った部屋は、リビングと雰囲気を異にしていた。

 閉め切ったカーテンを開けて外の光を入れれば、探し物こそしやすくなったが、背の高い本棚とどっしりとした書き物机のために、硬質で冷たい印象を与えている。

「君が取られちゃったおもちゃってどんなの?」

 男のことを思い出したのか、再び表情を強ばらせる男の子に問う。彼を見ていると、自分の弟を思い出して胸が痛くなった。彼はたどたどしくも、懸命に説明する。

「耳の長いうさぎさん。ボタンがついてるの。お母さんの手作りで、おじさんが持って行っちゃった」

 あの男の狭量さのために、この子は実の親を思い出すものを奪われたのだ。私はふつふつとした怒りを感じながらも、優しく言う。

「たぶんこの机の中か、本棚だよ。必ず見つけるから、ゆっくり見ていこうね」

 書き物机に向かう。日記帳と万年筆、インク瓶が置かれている。それらに興味はない。

 ただ、写真立てが一つだけ置かれているのが目に留まった。

 難民キャンプから子供たちを攫い、遊佐に殺されたあの男が、幸福そうな笑顔で、若い女と写っている。

 彼らを包む空気は親密で、恋人か、夫婦のそれに見えた。

 そういえば、あの男が両手を挙げたとき、左手の薬指に指輪がはまっていなかっただろうか。

 私は感傷を振り払い、机の引き出しを開けた。

 書類や薬が収まる中、目当てのものは三段目にあった。

「これかな?」

 柔らかいぬいぐるみを丁寧に取り出すと、ぱっと男の子の顔が輝いた。

「うさぎさん!」

そうして私から受け取ったぬいぐるみを、大事に大事に抱きしめる。私は、よかったね、と言って彼の頭を撫でた。

「兵隊のおじさんにも見せてくる!」

 よほど嬉しかったのか、私が止める間もなく彼はドアに向かって走り出す。そのとき、ドアが開いて遊佐が現れた。

「おっと」

 彼は男の子を見ると、状況を理解したのか笑顔になった。

「兵隊のおじさん、ぬいぐるみ見つかった!」

「そうか。よかったな」

 頭を撫でられた男の子は遊佐に促され、リビングに戻った。彼の足音が去ったあと、遊佐が書き物机の前まで歩いてくる。

「ここではなにか見つかったか?」

「薬が少し。頭痛薬と胃薬と……他のは分からない」

 引き出しを開けてみせると、遊佐がシート状のそれを一つ取り上げて言った。

「精神薬だな。これも持っていこう」

 遊佐が薬をしまっている間、私の視線は机の上の写真立てに引き寄せられていた。

 子供たちを一人ずつ攫い、光の差す清潔な部屋でおもちゃを与え、育てていた男。彼にはかつて、愛する妻がいた。

「あまり考え込むな」

 いつの間にか硬直していた私に、作業の手を止めることなく遊佐が言う。

「お前は生きている人間を救った。いいことをしたんだ。死者と自分を慰めるために、ほかの家族を犠牲にしたやつのことなんて気に病むことはない」

「そう、だけど……」

 世界が狂ってしまってから、多くの人が傷つきすぎた。私も遊佐がいなければ生き延びることはできなかったし、家族と涼香が生きている希望を失えば、心が折れてしまうかもしれない。

 小さな弟。たった一人の大切な友達。彼らに胸を張れる生き方をできているかどうか、明日でさえ分からないのだ。

「優しさと同情は違う」

 遊佐の平坦な声に、はっと我に返る。彼は厳しい言葉に反して、優しい目をしていた。

「どんな悪でも許すのが優しさではない。他者に害をなすなら、それを止めさせ、相応の罰を与えなければならない。そうでなければ被害者が浮かばれない。忘れるな」

 私はその光を受け止めきれず、俯いた。

「……うん。ごめんね、私甘かった」

 薬をしまい終わった遊佐が、軽く私の腕を叩く。

「そうしょぼくれるな。これから子供たちと危険がいっぱいのハイキングなんだ。明るく行こうぜ、明理」

「……そうだね」

 気さくな声に励まされ、私は顔を上げた。傷だらけの顔で遊佐が笑う。部屋の外から、子供たちの笑い声が聞こえる。

 リビングに戻った私と遊佐は、子供たちと自分たちの荷物の点検をして、マンションの一室を去った。

 主を失った部屋で、家具は朽ち、野菜は枯れ、写真立ての写真は色褪せていくだろう。

 男の夢と、偽りの家族の思い出とともに。

  

「子供たちはその後元気よ。親と子供たちから感謝の手紙が届いている」

 そう言って、エマ――銀髪に青い眼のアメリカ人。タンクトップから大胆に覗く右腕は金属製の義手だ――は、雑多に物が置かれた事務机の上に紙束を放る。

 私はそれを取り上げて、一つ一つ眺めた。私と遊佐を描いた絵もあった。思わず頬がほころぶ。

 エマは情報屋で、私たちに仕事を依頼したり役に立つ情報を売ったりしてくれる。パンデミックが起きたとき、大怪我をした遊佐を助けたとも聞いた。仕事場の様子からして整理整頓は苦手なようだが、とても頼りになる大人だ。

 今日はあの『偽家族』事件のあと、別の仕事を請けに彼女を訪れた。こうして関わった仕事のその後も教えてくれる。私と遊佐は、彼女に絶大な信頼を置いていた。

 私が嬉々として手紙を読む一方、隣に立つ遊佐は気遣う声を出す。

「どうした、浮かない顔をして」

「いや……」

 つられてエマを見る。彼女は持っていた煙草から灰皿に灰を落として、空を見つめた。

「子供たちの体調は問題ない。ただ、不眠や音への過敏な反応を示してもいる。いわゆる、後遺症ね」

「そんな……」

 幸福な気持ちは霧散し、手紙を持つ指から力が抜ける。エマは私のほうをちらりと見ると、淡々と言った。

「子供たちは確かに衣食住足る生活を送っていたけれど、それはあの男に従う見返りだったはずよ。彼は恐怖によって子供たちを支配していた。その傷は、子供たちに残るでしょうね」

「エマ、あまり言うな」

 遊佐がエマをたしなめる。彼女は動じることなく遊佐を見ていた。

「明理はあなたのパートナーのはずよ。知る権利はあるわ」

「今のはお前の推測だろう」

 エマは鋭い視線を遊佐に向け、煙を吐いた。

「あなたの推測でもなくて? ミスター・遊佐」

「あの」

 エマと遊佐が私を見る。エマの背後の窓から差す光の中、煙がゆっくりと舞う。私の声はなにかを告白するように、かすかに震えた。

「私も、子供たちと話してそうだろうなって思ってました。自分が子供のころ、大人って怖くて、従わなくちゃいけない、って感じてたから」

 でも、と言葉を句切る。エマと遊佐はじっと耳を傾けている。一度閉じた目蓋の裏に浮かぶのは、小学校の教室だ。教師の顔は思い出せない。ただ、そのときの張り詰めた空気は覚えている。

「大人はそうじゃないんですよね。子供の意志で選んだと思っている。あの人も、子供たちに強制しているつもりはなくて、ただ死んでしまった奥さんとできなかった家族を、お父さんを、やろうとしていただけで」

「明理」

 遊佐がいつものように私の肩に手を置こうとして、下ろしたのが見えた。エマが彼に問う。

「私に話したことを、この子にも話したの? あの男との最期の会話」

「いや」

 苦々しげに答える遊佐に、エマは確かな響きで言った。

「あなたが思っているより、明理はずっと強いということよ」

「……煙草吸ってくる」

 私の視線を振り払い、エマの行ってらっしゃいという声に送られて、遊佐は部屋を出て行った。金属のドアが閉じ、エマが椅子に腰掛ける音が聞こえる。

「いちいち落ち込んでいたら身が持たないわよ」

「……すみません」

 肩を落とすと、エマが気の抜けた声で言った。

「謝ってほしくはないの。私が言い出したことなんだから」

「エマさんが私を子供扱いしないのには、感謝しています」

 笑って見せようとするが、うまくいかない。エマは目蓋を引き上げたあと、ため息を吐いた。

「そうでなきゃ仕事の依頼なんてしないわ」

 なんだかここ数日の緊張の糸が切れたように、泣いてしまいそうだった。光が眩しい振りをして目を細めた。涙はこぼれなかった。

「そうそう、あなた向けの情報が入っていたわ」

 顔を上げると、エマが窓の隣にあるボードから一枚の書類を剥がしていた。それを私に提示して言う。

「探しているお友達。黒髪のポニーテールに女の子にしては高い身長、制服の上に軍事用ベストで合ってたかしら? 彼女の目撃情報が、隣の県の市街地であったの」

「涼香が……。本当ですか!」

 私は事務机の上に乗り出して、書類を覗き込む。手書きのそれには、目撃者への聞き取りが書かれていた。

 ただ、とエマは声のトーンを落とす。

「情報提供者はその市街地を離れて三ヶ月が経過している。なんでもそこを拠点にしていたけれど、放火されて逃げてきたと言うの。お友達は移動してしまった可能性が高いわね」

「それでも……行きます。涼香がいたかもしれないなら」

 エマが笑みをこぼす。明るく優しい、年上の女性のものだった。

「遊佐を呼んできて。ついでにここに取ってきてほしいものがあるの。正式に依頼がしたいわ」

「はい!」

 私は満面の笑顔で応えると、飛び跳ねる勢いで遊佐がいる廊下に駆けていった。

 遊佐は廊下の突き当たりで壁に背を預け、煙草を吸っていた。

「遊佐さん、エマさんが仕事の依頼がしたいって呼んでるよ!」

 彼は私の顔を見ると、目を丸くした。

「分かったが……えらく機嫌がいいな」

 壁から背を離し、足下で煙草を踏み消す彼に、私はにこにこと話しかける。

「涼香っぽい女の子の目撃情報があったの。そこへ行くお仕事を頼みたいんだって」

 そうか、と遊佐が言う。いつものニッという笑いに、私はひどく、安心する。

「それは、早く向かわなくちゃな」

「うん!」

 暗い廊下を遊佐と歩く。二人分の足音が響く。エマに教えられた市街地に向かい、戻ってくるときは三人分がいい。

 それがどんなに遠い日でも、過酷な道のりでも、構わない。

 わずかな希望すら、私を生かすには充分なのだ。

 その端が待っている部屋のドアを、力強く開いた。

Vision

麻島葵主宰「にんぎょのくるぶし」による小説 本サイトの小説は条件付きで朗読可能です。 ○Skebでのボイスデータ依頼 ○配信、朗読会など金銭のやりとりの発生しない場での朗読 ×朗読したデータを販売する行為 ×有料配信、有料公演

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