MAGICAL WORLD
私は彼の小説の最初の読者だった。彼の描いた漫画も全部読んだし、弟のために作ったというゲームもプレイさせてもらった。彼の作品はすべて粗削りで、けれども純粋で、他人の心に寄り添う優しさに溢れていた。彼の作品に触れることは彼の魂に触れることだった。透明なガラス玉のような世界。私は彼の、美しく脆い世界が、いつまでも壊れないことを願っていた。
彼の世界は壊れた。昔から彼の人生にあった綻びが、同時に彼の優しさの根源でもあった瑕が、非情な世間によって暴かれ、そこから流れ込んだ汚泥の重さにより無垢なガラス玉は自壊した。私は彼の作品のファンだったから、濁り続けていくのを見るよりは、壊れてしまうほうがいいと、さえ思った。
彼は笑わなくなった。彼は泣かなくなった。サイトはログを残すのみとなり、メールの返信も遅れがちになった。らしくないなんて言っても私の声は届かなかった。いや、壊れるほうが彼らしいのだ。醜悪な世間に触れて汚れずに済むなんて、私の知っている彼ではない。でもどこかで、遠い日に私を救ってくれたその魂の輝きの強さを、信じてもいた。
それは私の怠慢で、私が最後に彼に犯した罪だった。
やがて、彼からの連絡は途絶えた。
そのとき私は、私たちの幼年期が終わっていたのだと知った。
「あなたの書いた小説を読んでみたい」と、彼に言われたことがある。私は小説なんて書いたことがなかった。自分が彼のように、創作をできるとは思えなかった。けれども彼が去ってから、その穴を埋めるようにぽつぽつと文字の連なりをしたためはじめた。
まったく、ぜんぜん、笑ってしまうほど、形にならなかった。文章なら学校でも会社でも書いている。絵よりもゲームよりも簡単なはずだ、と思ったのは最初だけで、途中でまとまらなくなって投げ出してしまった。彼の勤勉さと、世の小説家の偉大さを知った。
絵も描いたし、ゲームも作ろうとした。しかし、すべてうまくいかなかった。何が足りないのだろう。才能? 時間? おそらくその両方だ。創作に青春を捧げたわけでもない素人が、社会人になってからその分野に足を踏み入れようとしたのだ。最初からなにかを成せるはずがない。時間をかけても、ひとに見せられるようなものを作れるようになるまでは数年はかかるだろう。
数年をかけるほどの価値があるものか?
価値がある。確信を持って言える。彼は青春を辞めてしまった。私だけが彼の愛した世界を知っている。かつての彼がいた場所に、並び立てるのは私しかいない。
ならば私はあなたの去った箱庭に花を植えよう。あなたの残骸の傍らに立ち、あなたの帰りを待ち続けよう。帰ってくるかもしれない、と期待するのではない。帰ってこなくても、私はここを守り続けるのだ。それが、今私ができる、彼を信じることだからだ。
そうして私は種を撒いた。しおれた花もあれば、虫に食われた花もあった。けれども毎日水やりは欠かさなかったし、一株一株に対し丁寧に手入れをした。晴れの日も、雨の日も、私は箱庭に足を運び、彼の残骸を眺めながら、それと調和を保つよう慎重に景色を整えていった。
そうして、何年が過ぎただろう。
相変わらず私は創作がへたで、どれかの分野で名を成すということもなく、趣味人として作品を作り続けていた。こんなものか、とは思わなかった。まだまだ道のりは長い。私はいつまででも、彼の帰りを待ち続けるつもりだった。
それに、かけがえのない宝物ができた。友達だ。インターネット上に作品をアップロードすることで、創作の輪が広がり、今では趣味の話をしたり実際に会ったりする友達ができた。趣味を介していることが前提の、私生活に干渉しない交友。どこかで一線はひかれているものの、その距離感が心地よく、私は日々それなりに、楽しく、暮らしていた。
ある日、友達の1人に「VRChatをやってみないか?」と言われた。
なんでも、バーチャル空間でチャットを楽しむゲームがあるらしい。好きな姿になったり、ワールドを作ったり自由度の高い創作をすることができる。HMDをかぶれば実際にそこにいて、ひとと話しているような感覚も味わえるのだという。
いや、仮想現実だから、これは事実上の現実だ、と友達は熱く語った。私は興味を惹かれ、やりたい、と言おうとして、友達の「うちに来ればHMD貸してあげるよ」という声にかき消された。私は笑って、ああ、ぜひやりたい、と言い直した。
結論から言うと、私はHMDを購入した。友達の家での1泊2日のVR体験はすばらしいものだった。事前にデスクトップでアカウントを登録して、少しワールドを散策したときとは違う、事実としてそこに「居る」感覚。私はその魅力を追体験するかのように、HMDが届くまでの間、様々なワールドを巡り歩いた。自分がここにおいて異邦人だという感覚はあったが、不快なものではなかった。どこまでも、心躍る世界が、目の前に広がっているような気がした。
数日後、HMDが届いた。友達に通話で教えてもらいながらセットアップをしたが、手間取ったりエラーが発生したりして時間がかかってしまった。その日は休日の昼間で、友達は夕方通院の予約があった。なんとかやり遂げたとき、友達は電車の時間が迫っており、彼は私を初心者向けワールドに連れてくると、その場にいた人にわけを説明して案内を引き継いだ。初対面のその人は、快く承知すると、消えていく友達に手を振り、そして私に向き直った。
「はじめまして。VRChatへようこそ」
呼吸が止まり、心臓が高鳴った。押し寄せる圧倒的な感情の質量。それは深い、深い憧憬と望郷の念だった。私は咄嗟に顔を覆い、その場に立ち尽くした。
「あれ? もしかしてミュートされてますか?」
いや、その声を聞いたときから。もっと前、アバターを見たときから気づいていた。
ずっと探していた。ずっと追いかけていた。あなたがここに戻ってくるのを待っていた。その声を知っている。その姿を知っている。だから一目見て分かった。私たちが愛した世界。守り続けていたのは、私だけではなかったのだ。
HMDの下で涙が流れる。私はこみ上げた嗚咽を、一瞬、ミュートで隠した。そうして再びマイクをオンにし、笑顔のハンドサインをして、答える。
「はじめまして。話せます、大丈夫です。よろしくお願いします」
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