邂逅
このお砂糖のためにコミュニティが崩壊する、なんてのはよくあることで。
一口に言っても内容は様々。コミュニティの主が複数人から言い寄られたとか、人気者を独り占めしようとする人がいたとか、一人を巡って周囲を巻き込んだお気持ち合戦になったとか。
あるVRChatterが属するコミュニティに起こったのも、そんなありふれた、しかし当人たちにとっては居場所をなくすほどの大事件だった。
それは、お砂糖、というよりも、恋愛の話だった。
女性VRChatterが、男性VRChatterに恋をした。
元々は男性が女性に声をかけたのだが、彼女にはリアルでパートナーがいたため、交際の申し込みを断った。しかし、彼女も本当は彼のことが好きで、ほどなくして男性にお砂糖相手ができたとき、それはそれは荒れて友人に味方をしてくれるように頼んだのだ。
味方をするとは具体的に、男性のお砂糖相手がコミュニティに入ることに反対すること。
お砂糖相手がインスタンスにいたら、こっそり彼女に教えること。恋敵に鉢合わせないように協力すること。
友人は女性VRChatterに頼られたことを信頼の証しと受け取り、喜んで彼女の願いを聞き入れることにしたのだけれど。
まあ、友人にももともとのコミュニティとの付き合いがある。男性VRChatterや、お砂糖相手と仲良くしないわけにもいかない。
女性VRChatterにとって都合が悪かったのは、このお砂糖相手が気遣いができる心優しい女性で、裏で陰湿な根回しをする女性VRChatterよりも人間ができていたことだった。
友人がこのお砂糖相手と仲良くなり、次第に彼女を含めたグループで遊ぶようになったことも、無理はないだろう。
これが、女性VRChatterは気に入らなかった。
一方で、コミュニティの面々にも変化があった。彼らは女性VRChatterがコミュニティに顔を出さなくなったことを訝しみ、彼女と仲の良い友人になにか知らないかと尋ねた。
友人はすでに、この時点で秘密を守ることに疲れ、女性VRChatterがお砂糖相手に示す嫌悪感に辟易としていた。
だから彼女は特に懐疑を露わにしたメンバーに、女性VRChatterの秘密をすべて打ち明けてしまったのだ。
ああ、そんなことしなければよかったのに!
メンバーは彼女に、女性VRChatterと話し合いをするように求めた。
今後コミュニティでどうするか振る舞いを決定するように。今まで仲良くしていたのだから、疎遠になるのなら挨拶がほしい。
彼女はメンバーの申し出を了承し、すぐに女性VRChatterと連絡を取った。
彼女のよくないところは、こうして周りの願いをすぐに聞き入れてしまうことだ。
その優しさにつけ込まれ、信頼されているようで舐められ、都合の良い仲介役にされてしまうのだ。
案の定、彼女がメンバーからの申し出を自分の意見として女性VRChatterに伝えると、相手はまったく話に取り合わず、諦めた彼女は通話を打ち切ってテキストでの話し合いに切り替えた。
テキストでのやり取りは外部に漏れる可能性がある。それを懸念して彼女は冷静に女性VRChatterにメッセージを送ったが、相手は逆上して攻撃的なメッセージを送ってくるばかりで、結論をまとめるのに非常に難儀した。
結果的にそれには成功したのだが、なおも粘着質な誹謗が止まないので、彼女はとうとう女性VRChatterをブロックしてしまった。
SNSを除けば自分の悪口が書かれている。彼女はそれもブロックした。
VRChatアカウントはブロックしないことにした。相手と遭遇しないために、フレンドは継続したままで居場所を監視できたほうがいいからだ。
しかし、ほどなくして女性VRChatterのほうから彼女はブロックされた。
彼女は摩耗しながらも、女性VRChatterとの事の顛末を伝えるために、コミュニティの一部の人々を呼び出した。
そこには彼女と親しい友人たちと、事の発端となった男性VRChatterがいた。
お砂糖相手がいる必要があるとは欠片も思わなかった。彼女は巻き込まれるべきではない、蚊帳の外の人間だ。
彼女が訥々とした口調で説明を終えると、彼らは残念がり、彼女の労をねぎらった。
男性VRChatterもそうしてくれたけれど、彼は最後まで彼女に謝らなかった。
それでよかった。彼はただ、自分の恋愛を成就しただけだ。
なんの責任もない。彼を振ったのは女性VRChatterのほうなのだ。彼がすぐに別の相手と付き合いだしたからといって、ずるいとか、軽薄だとか、そんな誹りを受けるいわれはない。
そんなことで悩むのは、大人の恋愛ではない。
本当に、いい大人のやることとは思えない。
この話はこれでおしまいだ。女性VRChatterと友人の縁は切れてしまったし、VRChatの中でも居場所は完全に別れて同じインスタンスに居合わせる危険性も限りなくゼロに近づいた。
両者がお互いの存在に怯えて、インターネット上での振る舞いを制限されることはない。
リアルでは、さらにその可能性は低いだろう。確か女性VRChatterと友人の居住地は、数百kmは離れている。彼女たちはそれぞれの正確な住所も知らないのだ。二度と、会うことはないだろう。
それでよかったのだ。
あのときは信頼されたのではなく御しやすいから打ち明け話をされただけで、友人は女性VRChatterにとって、親友でもなんでもなかったのだよ。
そうでなければ、裏切ったようで心が痛む。
……聞いた話だけれど、きっと彼女はそう思うだろう。想像がつくよ。
彼女はそれからもうなにか一言言いたげにしていたが、ぽってりとした唇を閉じるとグラスに残っていた酒を呷った。そうしてグラスを置くなり胃の辺りを押さえたので、向かいに座っていた男は自分の注文した料理に手を付ければよかったのに、と思った。
二人がいるのは秋葉原にある英国ハブを模したチェーン店だった。この街の近くで働いている男に会いに、女は地方から足を運んだ。二人は学生時代からの付き合いで、このあと男は女と寝るつもりだった。
男は夕食をその店で食べ、女はグラスを傾けて彼の仕事の話を聞いた。男は自分の話を終えると、女に水を向けた。女は仕事をしていないと知っていたから、前々から彼女が趣味にしているゲームについて尋ねた。それは仮想空間で他のユーザーと交流するもので、男は仕事で触れるかもしれないから、女の話を聞いておきたかったのだ。
女は初めこそ仮想現実のメリットを語っていたが、酒が進むうちにその口調は愚痴めいて、最後に先ほどの、ゲーム内特有だという人間関係の話をした。
男は機能的なことには興味深く耳を傾けたが、仮想空間における文化に対しては内心冷笑してしまった。
ようは大学のサークル内恋愛、いやそれ以下だ。セックスもしていないのに、顔を合わせることもないのに、彼らはモニターの前で深刻そうな顔をしているのだろう。あるいは物理的な障害があるために、彼らの悩みはプラトニックな恋愛のそれに近づくのだろうか。
どちらにせよ、自分がその世界にいたとして、それを経験することはない。
男が抱いた感想はそれだけだった。
女の話の主人公が誰かなど、どうでもよかった。
男は話を聞かせてもらった礼だけ言うと、食事に集中した。
しばらくして、女があまりにも長い間沈黙しているので、男は顔を上げた。彼女はやはり深刻そうな表情で、こめかみのあたりを抑えていた。
男は自分のお冷やを飲むように勧め、彼女はそれに従った。ほどなくして、女は男に断ってトイレへと向かった。
男はお預けにはなってほしくないと思いながら、スマートフォンで近くのホテルを検索し始めた。
ひどく気分が悪い。
飲み過ぎた。調子に乗った。いい大人が、だらしない。
四方を白い壁で囲まれて、黄色く泡立つ便器の水を見つめていると、自分がどうしようもなく駄目な人間であるという絶望に襲われる。
あらゆる感覚が遠いのに、酸っぱい胃液の臭いだけが鋭く嗅覚を刺激する。そのために、私はもう一度便器に向かって嘔吐した。
肩で大きく息をする。意識して呼吸を落ち着けると、次第に頭や四肢に力が戻ってきた。
先ほどの嘔吐で、胃の中のアルコールは吐き切れたのだろう。
吐いてしまえば気分がすっきりすると教えてくれたのは、高校時代の恋人だ。
今日は高校の後輩と会っている。
彼を待たせたくない。一応年上なんだから、あんまりにも格好悪いところは見せないようにしないと。
私は便座を支えにして立ち上がると、トイレットペーパーで口元を拭い、それと便器の水を流した。
入っていた個室を出て、他の個室が埋まっていることに気づく。
私の行動は音によって周囲に知られていただろう。途端に恥ずかしさがこみあげ、急いで洗面台に向かった。
同時に、一人の女性が女子トイレに入ってくる。同い年くらいの、コンサバ系の服を着た女性だ。
彼女は私の入っていた個室に足を踏み入れたが、鍵の音はしなかった。
どうしたのだろう、と思ってハンカチで手を拭きながら振り返ると、彼女は見覚えのあるバッグを捧げ持って個室から出てきた。
それは、私の所有物だった。
「すみません、こちらお忘れではないですか?」
女性は今にも裏返りそうな高い声で、私に尋ねる。
「すみません、ありがとうございます」
私は途端に酔いが醒め、何度も頭を下げながらバッグを受け取った。
女性は会釈すると、最後まで目を合わせずにトイレの個室に戻り、鍵を掛けた。
私はバッグを斜めがけにし、足早に女子トイレを出た。
危ない。この中にはスマートフォンも財布も入っている。親切な彼女がすぐに教えてくれなかったら、都会で大失態を演じるところだった。
ありがとう、と心の中でもう一度彼女に礼を言い、確かな足取りで店までの道を戻る。
ふと、どこかで彼女の声を聞いたことがあるような気がした。
加えて、あの自信なさげな所作。初めて会う女性だが、不思議と親しみを覚える。
ああ、そうか。
接客業に就いている女性だ。彼女たちは皆、聞き取りやすいよう高い声でしゃべり、控えめな振る舞いをよくするものだから、それと勘違いしたのだ。
女性なら接客業に就いたことはなくても、それらしいペルソナは身につけるものだ。彼女も、おそらくはあの瞬間の私も、対初対面の人間用のそれを発揮していたに違いない。
これがもし本当に知っている人の前だったら、殊更に恥ずかしかった。
旅の恥は掻き捨て、という言葉は好きではないが、彼女が私のことを忘れてくれることを願う。
私も忘れる。
ハブに戻ると、入り口近いテーブルで後輩が私を見つめていた。
「大丈夫?」
「うん」
彼は緩慢な動きでスマートフォンをしまい、私もグラスの水を飲み干す。
「行きましょう」
彼の言葉を合図に私たちは席を立ち、店を出た。
通路を歩く間は無言だった。ビルの外、夜空の下に出ると、彼が訊いてきた。
「お店でなに話したか覚えてます?」
「なんだっけ。……忘れちゃった」
秋風の向こうで彼が笑った気配がして、冷たい指が私の手を捕らえる。
「アキバはホテルがないから、家に来ませんかって話してたんですよ」
私は彼の手を握り返して、パーカーに包まれた細い腕に身を寄せた。
「家行っていいんだ。嬉しい」
彼はなにも言わなかった。それで私たちはタクシーを捕まえて、上野にある彼の家に行って寝た。
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