FACE

 むかしむかしあるところに、VRChatterがいました。

 彼は大学に通う男子学生で、学部の性質もあってほとんど異性と接することのない生活を送っていました。

 それでも研究室には一人だけ女子学生がいました。しかし、彼女はその空間のマドンナと呼ばれるにふさわしい女性ではありませんでした。

 女子学生は、首に段差があるほど太っていて、一重目蓋にはたっぷり脂肪がついており、それらの外見上の欠点は若い男子学生にとって充分マイナス要素でしたが、なによりも彼が気に入らないのは女子学生に愛想がないことでした。女子学生が常時やることやってればいいんでしょという態度で研究室の面々と最低限の会話しかせず、自分の手が空いていてもこちらに声をかけてくることもない姿勢に男子学生は日々苛立っていました。

 彼女は食事中くちゃくちゃと咀嚼音を立て、足でドアや引き出しを開けたり閉めたりします。男子学生が彼女のミスを指摘すると、彼女はこちらを非難するようにぶすっとした顔で見つめてきました。

 そういった、彼女のすべてが、男子学生の気に障り、彼は彼女のことが、大嫌いでした。

 世の中の女なんてこんなものか。汚くて、愛想が悪くて、気遣ってやる価値もない。

 男子学生は女嫌いでした。現実の女嫌いでした。

 一方で、彼は画面の中の女性を愛していました。

 工業高校に通っていたころはアニメーションに登場する女性キャラクターを愛で、大学に入学してしばらくは秋葉原で美少女ゲームを買いあさるのを趣味としていました。

 それらのフィクションの中の女性を愛玩することも楽しく、楽ではあったのですが、大学三年生の初夏に彼が出会ったゲームは、非実在の女性には到底もたらせない刺激を彼に与えることになりました。

 それは、VRChatと呼ばれる、仮想空間で他プレイヤーと交流できるプラットフォームでした。

 彼はその世界を識って間もなくして没入感を高めるためのデバイス・HMDを買い、それからほぼ毎夜仮想世界へログインするようになりました。

 彼が入り浸ったのは美しいアバターをまとったキャストに接客してもらえるイベントでした。イベントは大抵店舗を模したワールドで開かれ、客はテーブルについて店員と会話するひとときを楽しみます。

 いわばキャバクラです。VRChatは男性プレイヤーの人口比が多く、それはこういったイベントでも例外ではなく、加えて接客とはいっても金銭のやりとりがないためそれは客と店員のロールプレイに収まる範囲の行儀の良いものでしたが、それでも現実世界で他人とコミュニケーションする機会に乏しい男子学生はこれにのめり込みました。

 その中で、彼は一人の女性と出会いました。

 彼女はミモザという名で、あるイベントのキャストをしていました。

 儚い響きのある声は澄み、柔らかい語尾はいつも男子学生の耳に心地よく、彼は彼女と会って一言二言言葉を交わしただけで恋に落ちたのです。

 話の端々から覗く彼女の思想や、上品でいてきらびやかなアバター改変の傾向からして、ミモザはリアル女性に違いないと男子学生は踏みました。

 しかし、彼女は今まで男子学生が会ってきたどの女性とも異なりました。彼女は現実の女のように無愛想ではなく、フィクションの少女のように幼くもありません。男子学生の話に落ち着いて耳を傾け、美しい声を上げて笑い、教養のある返しをしてくれます。

 男子学生はすっかりミモザの虜になりました。イベントに足を運び、接客してもらうたび、その時間は夢のように、瞬く間に過ぎました。

 男子学生は、もっとミモザと近づきたい、そばにいたい、客とキャスト以上の関係になりたいと望むようになりました。

 無理もないことです。

 それが彼にとって、初めての恋だったのですから。

 フレンドになることはそれほど難しくありませんでした。なぜなら、ミモザのほうから申請を送ってきてくれたからです。どうしてかは分かりませんでしたが、そのときミモザがとても気安い様子だったので、特別なことではないのだと、男子学生は思いました。

 構いませんでした。これでミモザとプライベートで会えるようになったのですから。

 男子学生は三回目のプライベートでの逢瀬で、ミモザをロマンチックなワールドに呼び出し、まずいつも通り雑談を始めました。

 自分の大学生活のこと。卒業研究に精を出していること。しかし研究室の女が非協力的で、下品で無愛想で、自分は彼女のことが気に入らないこと。

 それに比べてミモザは上品で、話もおもしろく、声も姿も非常に好みであること。

 ミモザは男子学生の語りを邪魔しないように、短く、適切なタイミングで相づちを打ってくれました。おかげで男子学生は、自分の伝えたいことを最後まで言うことができました。

 ミモザさん、あなたのことが好きです。お付き合いしてください。

 彼女は断りました。あなたのことはお友達だと思っている、という決まり文句も、ミモザの言いにくそうな様子と鈴を転がすような声音のためにお世辞には聞こえませんでした。

 そうですか、残念です。

 それでもショックだった男子学生は沈黙してしまいましたが、ミモザは取り繕うようにまたお店に来てねと言い、明るく挨拶をしてインスタンスを去って行きました。

 なにがいけなかったのだろう、と男子学生は思いました。

 お店には何度も通ったし、プライベートでも会った。三回目のデートで告白をするのが定石だとネットの記事で読んだから、実践した。

 会話ではいかにミモザが自分にとって特別な女性か、どれほど素晴らしい女性だと思っているかを伝えたつもりだった。日常の話から恋愛の話に持っていく流れも、自然で悪くなかったはずだ。

 せめて、ミモザに自分のどこが恋人としてふさわしくないのか聞けばよかった、と彼は反省しました。

 今度会ったらそうしよう。彼女のためなら変われる。彼女の褒めてくれたところを大事に磨いて、彼女にふさわしい男になって、また告白しよう。

 初めはインターネットの中の関係でもいい。あの甘い声を二人きりの空間で独占できるならそれで構わない。

 でも、いつか。リアルで彼女と会い、手を繋いで、そうして一つになれたのなら。

 きっとミモザさんは美しい。

 俺より年上であることはなんとなく察しているけれど、きっと美容に気をつけているから肌はきれいだし、髪も整えている。いい匂いがして、上品な服の下にかわいい下着を着けている。残業に悩まされがちな彼女は、きっと職場の人々から頼られているのだ。リアルの世界でもマドンナ。リアルの世界でもきれい。そうに決まっている。

 きっと会える。美しいミモザさんと会える日が、とても、楽しみだ。


 翌日、彼は午前中たっぷり寝て、大学の昼休みから研究室に顔を出しました。

 部屋に入るなり、あの女子学生がげっぷをするのが聞こえ、男子学生は不機嫌に挨拶をしました。

 VRChatならミュートでこんな音も聞かずに済むのに、と彼は思います。

 彼は習慣である机周りの掃除をしながら、ふと女子学生が頬杖をついて見つめているモニターに目を留めました。

 彼女がネットサーフィンをしているらしいそれには、彼が夜の世界で見知っている3Dキャラクターたちの集合写真が表示されています。

 男子学生は、自分の脳を、小さな虫が這うような感覚を覚えました。

 なぜ自分がそんなものを覚えているのかは分かりません。もしかしたら彼女も仮想世界にいて、いつか自分の夜の顔がばれてしまうかもしれないなどと危惧したのではありません。

 もう数秒すれば、感覚は認識の次元に堕ち、それが最大の心配事だと彼は錯覚したでしょう。けれどもこの時点の彼を闇の中から伸びる手のように支配していたのは、もっと別の恐怖でした。

 もしも彼女が仮想世界にいたら――。

 美しいアバターの数々が男子学生に笑いかけます。

 どんな姿をとるのだろう――。

 彼ははっと現実に返りました。モニターの隣で、女子学生が普段よりいっそう険しい目つきで自分を睨んでいるのに気がついたのです。

「なに」

 彼女の問いに、彼はすぐに目を逸らし

「別に」

 と答えました。男子学生は再び机に向き直りながら女子学生のじっとりとした視線を感じていましたが、やがてそれが外されると、小さく、二酸化炭素をたっぷり含んだ息を吐きました。

 ああやはり、現実の女は嫌いだ、と彼は思いました。

 早くミモザさんに会いたい。今夜は会えるだろうか。今日も研究やアルバイトのストレス、将来への不安を忘れさせてくれるだろうか。

 きっと忘れさせてくれるだろう。だから彼女に褒めてもらえるように、会ったときに最大限の幸福を覚えられるように、頑張ろう。

 彼がそう決意して向き合ったモニターには、ぼさぼさの髪の下に歪んだフレームの眼鏡をかけた男の顔が映っていました。

 

 

 

Vision

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