世界の果て

 君が「ここが世界の果てだ」と言ったとき、僕には最初なんのことだか分からなかった。

 君といれば珍しくないことだが、君は文脈を無視して唐突に話を始める癖がある。君が理系であること、そのわりに本をたくさん読むことを知った今では、僕は以前ほど面食らわずに、続きを促すことができた。

「世界の果てって、どういうこと?」

 君は山間に沈もうとしている夕日を見ながら話す。

「基底現実では人口が増え、反対に人類に残された資源は減っている。人類はこの資源を節約しなければならない。となると、私たちが控えるべきは移動だ。病の流行によって物理的な繋がりの絶たれた昨今では、それを補う道具や設備が各家庭に行き渡った。今はインターネットを介したビデオ通話が一般的だけれど、私はこれが技術と人々の価値観のアップデートによって、仮想現実に発展すると思っているよ」

 君の言葉はすらすらとその口から出てきて、穏やかに僕の耳孔に流れ込んでくる。君はおそらくずっとこのことについて考えていて、ようやく僕に話してもいいのだと思ったのだろう。

 この世界で、もっとも君に近しい人間であるはずの僕に。

「人間はみんな、いつかこっち側に来るってこと?」

 僕が問いかけると、君は長い狐耳を揺らして頷いた。夕日は僕たちがこのインスタンスに来たときからずっと、山並みの上で輝き、僕たちの立っている傾斜のついた牧場を照らしている。

「そうだ。人々はますますインターネットの恩恵を受けるようになる。ボタン一つで生活必需品が家に届き、部屋にこもっていても仕事ができる。物質的な交流は必然性を伴うようになるだろう。一方で、私たちには顔を合わせて話がしたいという原始的な欲求がある。円を描いて座り、話題の中心をうまく次の人に回しながら、互いの絆を確認し、縁を強める作業は、文明の発達度合いを問わず行われてきた。私たちの肉体はコンクリートの箱の中に閉じ込められることをよしとしても、精神はそうはいかない。人間は、社会的な生き物だからね」

「前に君は、東南アジアの島を訪れたときの話を僕にしてくれたね」

 僕は思い出しながらゆっくりと言った。

「そこには一つの瓶に入った酒をみんなで回し飲みする文化があるって。あれは確か、それぞれがコップを持つのでは成り立たないコミュニケーションの話だったよね。酒宴では、瓶からお酒をあまり飲まない人がいると、もっと飲め、ってからかうのがお決まりだから」

 それを思い出したよ、と僕が言うと、よく覚えているね、と君は少し嬉しそうに応えた。

「人類はいつか肉体に縛られない生活を手に入れることになるだろう。それが何年先のことかは分からないけれど、そうなる日は必ず来る。でも」

 君は一度口をつぐみ、牧草を揺らす風に語りかける。

「それが人類の限界なんじゃないかと思う。仮想現実は現実になる。今もそうだけれど……どこにでもアクセスできるなら、どこでも世界の果てになることに変わりはない。その先になにがあるか、私たちは識ってしまっている。海の向こうになにがあるか、恐れと不安と、期待を抱いてその先に船首を向けていた時代とは、まるっきり違ってしまっているんだよ」

「僕はそうは思わないよ」

 僕がにこやかに言ったからか、振り向いた君の顔はデフォルトの表情であるのにもかかわらず驚いて見えた。僕は君の瞳をまっすぐに見て続ける。

「まだ出会ったことのない人間はたくさんいる。まだ生まれていない場所もたくさんある。世界と人の心が絶えず変化するなら、すべてを識るスピードが未知のものが生まれるスピードに追いつくことはない。僕は目の前にいる人のすべてだって、理解しきることはないんだから」

「それが、人間に与えられた恩恵だと言いたいの?」

 君は僕の言いたいことを一瞬で理解して訊いた。僕は笑顔で頷く。

「そうだよ。君が言ったとおり、人間は他者がいて初めて存在できる生物だ。同時に、世界を変化させる可能性を持ち、好奇心を失わなわなければ……僕たちが人間である限り、果てなんてものは存在しない。仮想現実はそれではない。君の意見に反対するようだけれど、僕たちはもっと遠くへ、行けるんじゃないかな」

 君は僕を見つめ返してしばらく黙っていた。それは不思議と満ち足りた沈黙で、時間を忘れさせる居心地のいい住み処そのものだった。

 美しい夕日を浴びた君の頬が、希望に輝いているのを僕は見る。

「君が言うことが本当なら、私は自分が生きている意味を探して世界一周の旅なんてする必要なかったかもしれないな」

「それがあるから、今の君があるんでしょ」

 僕は君に近づいて、茶色の瞳を覗き込んだ。

「今の君が、僕と出会って目の前にいてくれることが、たまらなく嬉しいんだ」

 君は目を逸らして、僕の言葉を噛みしめるように、ありがとう、と言った。

 世界は絶えず変化していく。膨張する宇宙のようにそれは広がり続け、その端っこに簡単にアクセスできるばかりに、ここが果てだと、孤独を味わうこともあるかもしれない。

 けれども、誰かが一緒ならば。目の前の景色について語り合い、一人では気づけなかった彩りと、相手の心について知ることができるだろう。

 君と、またこんな過ごし方をできたらいい。

 隣にいる君が、きっと僕と同じ気持ちでいてくれていることを信じながら、僕はまぼろしの夕風に身を任せた。

 

Vision

麻島葵主宰「にんぎょのくるぶし」による小説 本サイトの小説は条件付きで朗読可能です。 ○Skebでのボイスデータ依頼 ○配信、朗読会など金銭のやりとりの発生しない場での朗読 ×朗読したデータを販売する行為 ×有料配信、有料公演

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