冬の夕暮れ
花火大会、観覧車、映画館。
一般的な恋人らしいデートを好まないという点で、私たちの価値観は一致していた。
同棲しているおんぼろマンションの一室で、休日になると私と恋人は思い思いの時間を過ごす。
彼は自室兼リビングでパソコンのモニタかテレビの画面を見つめ、私はHMDを使いVRChatにログインする。
夜になると平日と同じようにいっしょに食事を取り、寝室で運動をして、そのまま眠る。
その過ごし方に不満はなかった。コロナ禍で他人と接する機会が激減した日々の中、インターネットの友達と過ごす時間は私にとっては安らぎだった。
ただ、彼のほうに不満があるのではないかという懸念があった。
彼は私と同棲するために会社の寮を出て、それからというもの同僚や友人と休日に会うことは滅多にない。休日を迎えてもなにをしたらいいか分からない、とこぼしてもいた。平日の夜は自分が担当している家事を終えて、明日に備えて眠ってしまう。
コロナ禍の前は、二人でよく旅行に行った。今は辞めてしまったけれど、彼が社会人サークルやバンドに属していたことも知っていた。
そんな彼が、現状に満足しているはずがない。きっと自分をほったらかしにして遊んでいる私に思うところがあるに違いないと心配したから。
東京が十二月を迎えてもっとも冷え込んだ、ある休日の昼下がり。私はパソコンで家計簿をつけている彼の背中に向かって言ったのだ。
「ねぇ、VRChatやってみない?」
「VRChat?」
彼は作業を中断されたというのにいやな顔一つせず振り返り、聞き返した。続けて
「それって、静香ちゃんがやってるゲームだよね」
と言う。この部屋に引っ越してきたとき不要品の取り引きサイトで彼がもらってきた安物のデスクチェアの上で、彼は穏やかな視線を私に向けていた。
「うん、ゲームっていうよりはおしゃべり空間みたいなものだけど」
改めてこのゲームをひとに説明しようとすると難しい。彼はそれで? という顔つきで私を見ている。私はまず相手の前提知識を確認することにした。
「孝史くんは、MMORPGってやったことある?」
「なんとかオンラインみたいなやつ? ないなぁ」
「オッケー。MMORPGでは、プレイヤーがロビーに集まって駄弁ったりしてるの。VRChatもそういう感じでね、仮想現実の中でプレイヤー同士が交流してるんだ」
「あ、セカンドライフなら知ってるよ。昔流行ったメタバースでしょ」
急に彼のほうから話の核心に近づく言葉が飛び出して、私は驚いた。私はルームシューズに包まれた足を一歩踏み出して言う。
「そう、それ! VRChatもセカンドライフと同じメタバースなの。でも、VRでその世界を体験できることが大きな魅力なんだ」
ふぅん、と彼は相づちを打つ。興味を引かれたのでも、その逆でもない、フラットな響き。私は手振りを交えて説明を続ける。
「VRChatではね、好きなアバターを着てきれいなワールドで過ごしたり、そのワールドを作ったり、イベントに参加したりできるの。いろんな人がこの世界に来てるから、孝史くんと話が合う人もいると思う」
彼は実直なまなざしを私たちの横にあるキッチンの方に向け、考え込んだ。玄関の外で隣人がドアを閉める音がする。私はすっかり毛足の絡まった絨毯に視線を落として言った。
「休みの日さ、私たちあんまりいっしょに過ごしてないじゃん? 孝史くんも同じゲームをしたら、二人で過ごす時間が増えるし、孝史くんにもお友達ができるんじゃないかと思ってさ。いっしょにやろうよ」
ちらりと彼の顔を窺うと、整った顔立ちの中で輝く大きな瞳が見つめ返してきた。
「そういうことなら、いいよ」
「ほんと!?」
私は両の拳を握りしめて叫んだ。彼は柔らかく頷く。
「はまるかは分からないけどね。試すだけ試してみるよ。まずは、なにをしたらいいの?」
えっとね、と私は彼が背を向けているパソコンのほうに身を乗り出して言う。
「まずはVRChatのアカウントを作るの。VRChatで検索して」
「はいはい」
彼はパソコンに向き直ると、家計簿をつけているスプレッドシートのタブの横に新たなタブを追加した。そして私に言われたとおり、検索欄に『VRChat』と打ち込む。
「そう、そのサイト。画面をスクロールして、Create a New Accountを押して……」
彼は素直に私の指示に従い、アカウント作成の手順を進めていった。
恋人はかっこいい。身長こそ高いほうではないものの、彫りの深い顔立ちは外国の男優にも似ていて、彼のことを意識し始めてから十年以上経っているのににもかかわらず、今でも時折見とれてしまう。
そんな彼が、大きな箱眼鏡をかぶっている姿は少し可笑しかったけれど、操作に不慣れなのも相まって微笑ましかった。
「左スティックを倒すと前後左右に動けるの。視点の移動は右スティック。急に動かすと酔いやすいから気をつけて」
私の指示を聞きながら、彼はおなかの前で握ったコントローラーを操作する。その様子は、私がリビングに持ち込んでいるゲーミングノートパソコンの画面からも確かめられた。
今、ここでは二人の人間がVRChatにログインしている。私たちは現実の空間をともにしているのと同時に、VR空間でも同じインスタンスにいた。インスタンスはチャット文化にすら触れたことのない彼に配慮して、誰も入ってこないようInviteで建てた。
私がダイニングテーブルに置いているノートパソコンの画面には、真昼の光を浴びた岩肌を背景に佇む彼が映っている。彼は私が渡した少年のサンプルアバターを着ていた。
「オーケー。じゃあ私は村のほうに移動するから、スティックを倒して私についてきて。酔ったらすぐに言うんだよ」
「はーい」
私はVR空間の中で、ワールドの入り口にかかる橋を、後ろ向きに彼の姿を視界に入れながら歩く。彼はときどき立ち止まりながら、私についてきた。私たちはそのまま小さな森へと入る。
「ちょっとここで立ち止まろうか」
頭上に緑の葉を戴く空き地で、私たちは向き合う。画面の中、ぎこちなく立つ彼は、チュートリアルワールドで見かける初心者たちと似た空気をまとっていた。
「手を動かしたり、周囲を見回したりしてごらん。アバターの動きが孝史くんの動きに追従するし、三百六十度景色を見回せるから」
私は振り返って、現実の彼を見た。彼は私に言われたとおり、持ち上げたコントローラーを見つめ、天井をぐるりと見回している。
「どう?」
期待を込めて私は問う。HMDをかぶった彼は私のほうをまっすぐに向いて言った。
「これはHMDについたカメラが、コントローラーの位置を捕捉しているのかな? 後ろに手を持ってくると動きが追従しなくなるし」
技術職らしい彼の的確な指摘に、私は喜びと、ほんの少しの落胆を覚える。
「そうそう、よく気づいたね。HMDの中には体の前後にカメラ……の役割を果たすものを置いて、頭と手の動きを捕捉するものもあるけど、これはHMDとコントローラーで完結する機種なんだ」
ふぅん、と彼が言う。またフラットな響き。私はわずかな焦燥と目減りした期待を抱きながら、ノートパソコンに向かう。
「先に進んでみよう。このワールドのメインは中世ヨーロッパ風の村なんだ。こっちこっち」
再び後ろ向きに歩きながら彼を案内する。彼は先ほどよりはスムーズにVR空間を進んでいく。
やがて私たちは、RPGの最初のステージにありそうな牧歌的な村へと足を踏み入れた。周囲には素朴な生活が営まれていることを窺わせる家々や露店が建ち並んでいる。彼がかぶっているHMDからは、スピーカーを通してのどかなBGMが聞こえていた。
私は再び喉まで出かかった、どう? という問いかけを飲み込み、明るく彼に言った。
「こういう光景、RPGでありそうでしょ? たくさんの作者さんが、自分の好きな世界観のワールドを作っているんだよ」
「エンジンはなに?」
画面の中で遠くの空を見やっていた彼が尋ねる。
「Unityだよ」
私が短く答えると、彼は得心した様子で頷いた。
「ポケモンGOと同じか。誰でも開発ができるようになっているんだね」
「そうだね」
「グラフィック結構きれいじゃん。Unreal Engineほどじゃないけど」
本当に、本当にささやかだが、彼が初めてワールドそのものに感想を述べてくれたのが嬉しくて、私はつい早口になってしまう。
「この作者さんワールドの質感にはすごく凝ってるんだ。この先の小麦畑がきれいだよ」
へぇ、と言った彼を、私は小麦畑まで先導する。黄金の穂先は一定の周期でたおやかに揺れ、デスクトップモードだというのにここに風が吹いていることを感じさせてくれる。
私はVR空間の中、隣に立つ彼に問う。
「どうかな、実際にこの景色の中にいるような感じがしない?」
背後から、彼の真面目な声が聞こえる。
「正直微妙かな。実際に行ったことのある場所じゃないしね」
そっか、と私はこぼし、パソコンのキーを押してメニューを開いた。気を取り直して提案する。
「次は海のワールドに行ってみようか。あ、酔ってたりしない?」
「酔いは大丈夫」
彼の返答に少し安堵し、私は新しいインスタンスを作成した。ポータルを目の前に出し、画面の中の彼に言う。
「この丸の中の景色に向かって歩いて行って。別のワールドに移動できるから」
「分かった」
彼がポータルに入ったのを確認して私も移動する。美しい小麦粉畑が消え、青緑色のロード画面が映る。彼の目にも同じものが見えているはずだ。
「うちのWi-Fi弱いね。普段遊んでて重くない?」
夕食のメニューを問うようなトーンで訊かれ、私は何気なしに答えた。
「HMDとパソコンを有線で繋いでいるから平気。パソコンは有線LANだしね」
彼は、よかった、とつぶやいた。
夏のお祭り会場、遊園地、ショッピングセンター。
複数のワールドを巡って、彼の反応を見るうちに、私の胸の高鳴りはすっかり音を潜めていた。
彼は一度も自分からワールドの中を歩き回らなかった。アイテムにもギミックにも手も伸ばさなかった。そもそも、元よりゲームをやらないし、おしゃれに興味はないし、物作りは物理的に工具を握ってやるのが性に合っているのだ。
こうなることは、分かっていたはずだ。
それでも一縷の望みをかけて、勧めたのだ。
自分を魅了した世界を。彼も同じように、すごいね、面白いね、こんなことができるんだね、と言って、足を踏み入れてくれることを願って。
「ここまで回ってみてどうだった? VRChat」
一時間近く続いたワールド巡りの最後に、私は答えの分かりきった質問をする。マンションの一室を模したワールドで、彼は頭と腕を静止させたままゆっくりと言った。
「たぶんはまらない。こんなふうに気軽に外を体験できるのはコロナ禍では需要がありそうだし、これから発展していく分野だとは思うけど、僕はいいかな」
それが、答えだった。
「そっか」
私の愛想の乏しい返答にも、彼は優しく返してくれる。
「静香ちゃんが普段遊んでるゲームを体験できてよかったよ。案内してくれてありがとうね」
「こちらこそ、付き合ってくれてありがとう」
私は淡々と、VRChatとHMDをシャットダウンする手順を説明する。彼のかぶっていたHMDを持ち上げると、明るい色の瞳が露わになった。なぜかそれを、久しぶりに見たような心地がした。
彼はくしゃくしゃの髪のまま、さっぱりした笑顔を私に向ける。
「やっぱり僕は、リアルの静香ちゃんの顔のほうが好きだな」
「なにそれ」
私は少しむっとして、HMDと彼から受け取ったコントローラーをダイニングテーブルの上に置く。硬質なプラスチックと木製の天板が触れあう音が大きく響いた。
「落ち込むことないよ」
彼は言い、デスクチェアに腰を下ろした。私は生返事をして、ダイニングテーブルの椅子に腰掛ける。全身の力が抜け、肌の上に寒気を感じた。
テーブルの上のHMDを見つめながら、独り言のように吐露する。
「VRChatやってる人たちがさ、リアルの友人や恋人を連れてくるのに憧れてたんだ。きっとVRの世界をすごいなって、思ってもらえるんだろうなって」
「そりゃあ、僕みたいにHMDをかぶせられてもVRChatに居着かなかった人は、静香ちゃんたちからは見えにくいから、しかたないよ。成功者の経験談は目に留まりやすいからね」
彼は気に留めていない様子で言ったが、私の気は晴れなかった。
「うん。……それにね、私孝史くんに嘘吐いちゃったなって」
「嘘?」
私は自分の後悔を絞り出す。
「私、孝史くんと二人で過ごす時間を増やしたい、孝史くんにも友達ができてほしい、って言ったのに、本当はVR初心者の反応を見たかっただけだった」
「それは違うでしょ」
彼はすぐに否定した。そうかな、と曖昧な返事をすると、彼は確かな響きで言った。
「VRの世界に入るには、VRに魅力を感じることが必要でしょ? 静香ちゃんのロジックに間違いはないと思う」
「ううん……でも、本来の目的を見失っていたと思うよ」
疲労を感じ、片手で目を覆う。目頭を押さえると、わずかに眼球へと涙がにじみ出た。
彼の立ち上がる音がする。彼の気配が近づいてきて、大きな手が軽く、肩に置かれた。
「大丈夫だよ」
その手のひらから流れ込んでくる力強さに驚く。彼のほうを見ると、優しい瞳と目が合った。
「静香ちゃんが家で別のことをしていても、僕は気にしないよ。静香ちゃんが楽しそうに遊んでいるのが僕は嬉しいからさ」
私は目を瞬かせ、疑いを込めて訊く。
「本当に?」
彼はくしゃりと笑って言った。
「友達の旦那さんなんかさ、奥さんが仕事で何日も家を空けちゃったり、飲みに出かけちゃったりするのがすごくさみしいんだってさ。静香ちゃんは毎日僕といてくれるし、こんなふうに自分の趣味を紹介してくれたでしょ? それって結構ありがたいことだと思うんですよね」
少し茶化して言うのは、彼が本心を述べるときの癖だ。私は肩に置かれた彼の手に手を伸ばす。
「じゃあ、これからもこのままでいい、ってこと?」
仕事柄乾燥した肌に触れる。温かな体温を手のひら全体で味わう。まるで日なたのようだと思った。
「うん。いいよ。もちろん」
まっすぐな彼の表情と声が、私にかかっていた悪い魔法を一瞬で解いてしまう。
いつもこんなふうに、彼の言葉に救われていた。そしてこれからも、救われていくのだろう。
「ありがとう」
私がにっこり笑って言うと、彼ははにかみ、私の肩をさすってきた。その様子がなにか言いたげだったので、愛おしい顔立ちをじっと見つめる。彼は照れくさそうに言った。
「欲を言えば、そろそろ旅行に行きたいな。緊急事態宣言も解除されたし。静香ちゃんはどう?」
「行きたい」
私は胸に喜びが湧き上がるのを感じながら、椅子の上で体を彼に向けた。
「次は四国なんてどうかな。VRChatのフレンドさんがね、四国はすごくいいところだって言ってたの。瀬戸内海が見たいし、香川でうどんも食べたい」
いいね、と彼は破顔し、私の頭のてっぺんに口づける。
「よし、じゃあ次は四国に行こう。どうやって行こうかな」
そう言ってパソコンの前に腰を下ろす彼の隣に、私もダイニングテーブルの椅子を運んできて座る。二人で画面をのぞき込みながら、私たちは声を弾ませて旅行の計画を話した。
VRでなくともいい。大事なのは二人でともに過ごすことで、その場所が私たちには現実世界に用意されていたのだ。
冬の夕暮れでも、二人で身を寄せ合えば暖かい。大まかな旅程を決めた私たちは、カーテンを閉め、夕食の支度を始めた。
0コメント