茉礼
むかしむかしあるところに、VRChatterがいました。
彼女は3Dモデラーでした。その立ち位置はクリエイターの中では中堅で、技術は確かながら一部の人に刺さる要素を備えたアバターを作るのが彼女の趣味でした。
彼女には友人が二人いました。一人はイケメンボイスイベントに属しているVRChatterです。彼はジョインしたインスタンスでいつも黄色い声を浴び、彼の前では何人もの性別を問わないフレンドがうっとりと彼の声に耳を傾けました。
しかし、3Dモデラーの彼女とイケボの彼がよく雑談をするDiscordサーバーでは、彼は気さくなお兄さんとして振るまいました。彼はVRChat内でかぶっているペルソナを脱いで、くだらない冗談や忖度のない意見を言い、周囲と打ち解けていました。
イケボの彼にとってその身内サーバーは、フレンドたちが自分と対等に接してくれる貴重な居場所だったのです。3Dモデラーの彼女にとってもそのサーバーは、クリエイターではなく一人の人間として扱われる大切な場所でした。
もう一人のフレンドは、そのサーバーに新しく入ってきた女性でした。彼女はイケボの彼のファンでしたが、3DモデラーのVRChat内における珍しい女性の友人ということで、サーバーに参加したのでした。ファンの彼女はイケボの彼を推しと呼び、なにかと彼を崇める発言をしました。イケボの彼はそんな彼女に気さくに接し、褒め言葉もさらりと流していましたが、3Dモデラーの彼女はファンの彼女の在り方に、少し煙たいような、むずがゆいような感覚を覚えていました。それを、決して口にはしませんでしたが。
ほぼ毎日繰り返される愉快な深夜の放課後に亀裂が走ったのは、ファンの彼女が3Dモデラーの彼女にした打ち明け話からでした。
その日、ファンの彼女は3Dモデラーの彼女を個別通話に呼び出し、神妙な声で切り出しました。
イケボの彼が妻帯者であったこと。自分はイケボの彼に告白をし、振られるときの文句の中で、その事実を告げられたこと。
3Dモデラーの彼女は驚きました。イケボの彼の若々しく、自由な振る舞いは、妻帯者のそれには見えなかったからです。しかし、それ以上に、ファンの彼女の次の言葉にショックを受けました。
イケボの彼のことを恨んでいること。妻がいることを隠しながら、こちらをガチ恋させるようなムーブをしていたこと。好意に対してはっきり拒絶することはせず、自分のそれを今まで甘受していたこと。
3Dモデラーの彼女はファンの彼女に同調し、失恋の痛手を慰めるつもりでいましたが、彼女の発言に対しては異を唱えました。
イケボの彼は友人として私たちに接していた。自分からはイケボの彼の振る舞いはガチ恋ムーブには見えず、そう見えていたとしても彼のファンを楽しませるためのパフォーマンスに過ぎなかった。彼に咎められるような点は一つとしてないと。
ファンの彼女は黙り込みます。3Dモデラーの彼女はそれを、通話の相手が自分の言葉を咀嚼する間だと捉えて彼女からの回答を待っていました。しかし、そうではなかったのです。
ファンの彼女は言いました。あなたも彼の味方なんですね。あの人のことが好きだから、庇うんですね、と。
3Dモデラーの彼女は大いに困惑し、ファンの彼女に反論しました。しかし、相手は聞く耳を持ちません。ファンの彼女は意味のない質問をしたり、こちらの意図を汲まない返答をしたりするばかりで、話は堂々巡りするばかりです。3Dモデラーの彼女は次第に腹が立ち、声を荒げました。
通話は切れました。3Dモデラーの彼女は頭を冷やしてから、ファンの彼女に謝罪し、和解を求めるメッセージを送りました。しかし、返ってきたのは攻撃的で破綻した文の羅列でした。3Dモデラーの彼女はすっかりファンの彼女への愛想を尽かしました。
Twitterにはファンの彼女が、はっきりと名前は出さずとも、3Dモデラーの彼女に対する悪口を書いています。3Dモデラーの彼女はこれ以上ファンの彼女と関わり合いになりたくなかったため、ファンの彼女をミュートして沈黙を決め込みました。
次の日、サーバーのボイスチャットにはイケボの彼が入っていました。3Dモデラーの彼女もボイスチャットに入り、彼を個別通話に誘うと、そこでファンの彼女との一悶着を打ち明けました。
イケボの彼は事態をなんとなく察していたようで、改めて自分の抱えていた秘密を3Dモデラーの彼女に話しました。リアルで妻帯者であること。VRChatは私生活から離れた、自分の声を生かす活動の場として遊んでいたこと。自分のフレンドたちに断絶を生むような事態になって残念であること。
イケボの彼はおそらく、内心を包み隠さず述べてくれました。しかし、この事態の原因でありながら、彼は一言も謝りませんでした。3Dモデラーの彼女はそれでいいと思いました。悪いのはファンの彼女です。二番目に悪い人物がいるとしたら、彼女の悩みを受け止めきれなかった自分です。
仕方ない、とイケボの彼は言いました。こういう活動をしていれば、ファンの彼女のような人も現れる。どうか気に病まないでほしい、自分も気にしない、と彼はニュートラルな響きで言いました。
後日、サーバーからは、ファンの彼女が抜けていました。3Dモデラーの彼女はあらゆるSNSでファンの彼女にブロックされていました。3Dモデラーの彼女は怒りを静めながら、ブロックをし返しました。
3Dモデラーの彼女はイケボの彼の言葉を受けて、VRChatを続けようとしました。実際には、続けられませんでした。共通の知り合いの多い3Dモデラーの彼女とファンの彼女が、同じインスタンスに居合わせる確率は低くありませんでした。3Dモデラーの彼女はファンの彼女を避けるうち、VRChatにログインすること自体を辞めてしまいました。
Twitterのタイムラインに流れてくる、フレンドのスクリーンショットの中に、ファンの彼女が写っているものが何枚もありました。イケボの彼と3Dモデラーの彼女を拒絶しながら、自分は何事もなかったかのようにVRChatを楽しんでいる彼女に、3Dモデラーの彼女は激しい憤りを覚えました。
3Dモデラーの彼女は、悶々とした日々を過ごしました。クリエイターとして過ごした日々。VRChatは自分にとって大切な作品発表の場でした。それがくだらない色恋沙汰で奪われたことで、彼女はどす黒い鬱憤を溜めました。
けれども、その鬱憤が腹の底に堆積していくうちに、彼女はひとつのアイデアを思いつきました。それはとても魅力的で、自分だからできることで、とても有効な手段に思えました。
彼女はイケボの彼と新しく作ったサーバーにこもり、日々3Dモデリングをしました。作るのは、今までの同じ性癖を持つユーザー向けではなく、万人に受け入れられ、多くの人が求めたがるような、かわいらしい最先端のアバターでした。既存のモデルを研究し、リアルのサブカルファッションについても調べました。アンケートを採り、進捗を報告し、広告として加工を施したスクリーンショットをアップロードしました。新アバターがある程度周囲に知られ始めたタイミングで試着会を開き、サンプルアバターがひしめくインスタンスを眺め回したとき、彼女は確かな手応えを感じました。
そして、ついにその日が訪れます。3Dモデラーの彼女の作ったアバターは販売開始になるや否や、爆発的な人気を獲得しました。BOOTHのお気に入り数はうなぎ登りに増えていき、Twitterは彼女の新アバターを買ったという報告で溢れました。数日後には改変アバターのスクリーンショットも流れてきて、他のユーザーから対応服もリリースされるようになりました。
3Dモデラーの彼女は、VRChatのFriend+インスタンスに、新アバターを着て現れます。フレンドもフレンドではない人も、彼女に話しかけるときは新アバターについて触れ、そのデザインと人気を称えました。彼女はアバターを褒められた満足感も感じていましたが、もう一つ、この数ヶ月とりつかれていた欲望が満たされていく感覚に支配されていました。
フレンドのひとりが言います。そういえば、最近ファンの彼女見ないね、と。
3Dモデラーの彼女は言います。そうだね。私も会っていない。どうしているのかな、と。
3Dモデラーの彼女はヘッドマウントディスプレイの下で、口角を上げていました。
私の作ったものが世界に溢れれば、あなたはここにいられなくなると思った。
どこへ行ってもあなたの視界は私の作品で溢れている。あなたは私の作品を目にせずにはいられない。VRChatを避けても、あなたのタイムラインには、きっと私の作品が流れてくる。
微妙に姿形を変えながらも、私の作品というアイデンティティを保って、あなたの世界を侵し続ける。
あなたはそれに、いつまで耐えられるだろうか?
3Dモデラーの目論見通り、ファンの彼女は滅多にVRChatに現れなくなったようでした。Twitterに流れてくるフレンドのスクリーンショットを見ていれば分かります。しばらくして、フレンドの口から、彼女は本格的にVRChatから離れたことを聞きました。
それを聞いたインスタンスで、3Dモデラーの彼女は満足げに微笑みます。
イケボの彼はそんな彼女を、遠くから何も言わずに眺めていました。
3Dモデラーの新アバターの人気が盤石のものとなり、ファンの彼女が去ってからしばらく経った日のこと。イケボの彼は、Disocordのボイスチャットで3Dモデラーの彼女にこう言いました。
「これは、小説ではないね」
私の書いた小説を読み終えた彼が、そう言った。私の反応を待たずして、彼は首を傾げて言い足す。
「言うなれば寓話かな。話の始まりと終わりで移動は起きているから、物語ではある。けれども私は……これを小説とは呼びたくないよ」
そうして手元を動かす。私からは見えていないが、彼の視点からはウィンドウが消えたのだろう。彼の空をつかんでいた手が膝の上に落ち着き、彼は大きくため息を吐いた。
彼と私しかいないインスタンスで、私たちは焚き火を囲んでキャンプ用の椅子に腰掛けていた。二人のアバターの上でオレンジ色の影が踊っている。
「寓話と小説はどう違うのでしょうか」
私が問うと、彼はゆったりと話し出した。
「これは私の定義だから、話半分に聞いてほしい。この話は、あまりに個人的すぎる。展開に整合性がなく、説明不足な点も多い。君は敢えて詳細を書かなかったのかい?」
彼の視線に穿たれて、私は咄嗟に顔を背けた。
「別に、私に起きたことではありませんよ。こういう動機で物作りをする人もいるかもしれないな、と思ったから、お話にしただけで」
それには興味がなさそうに、彼は、そうかい、と言った。
「確かに、アバター作りの動機に関してはフィクションめいているね。これが本当の話だとしたら、ノンフィクションがフィクションを越えているよ。結末はおもしろかった。でも、それだけに惜しい」
「どこがですか?」
「最後に、イケボの彼がなんと言ったのか、書いていないだろう」
私は平坦な声を出す。
「そう、それがどうしても思いつかなくて、相談したくて」
彼は真剣そうに言った。
「最後の台詞に関して私が提案したものを採用したら、これは私の書いた話になってしまうよ。この台詞が、この話においてもっとも大切な部分だと言っても過言ではない」
「そうですか」
それ以上続けることができず、私は黙り込む。彼は私をじっと見つめて、口を開いた。
「これは私の……独り言だ。私が最後の台詞を書くとするならね」
「はい」
「君の好きなものを使って、復讐なんてしてよかったのか、と書くよ」
「復讐ではありませんよ」
「じゃあ、嫌がらせだ」
「まあ、この話の主人公にとっては、そうでしょうね」
彼は再び、そうかい、と言った。感情など込められていないのに、なぜかその響きが耳に残った。
「おもしろいものを読ませてくれてありがとう。あの人気アバター、『茉礼』の作者が書いたフィクションを読ませてもらえるなんて光栄だった」
打って変わって明るい声で彼が言う。私は椅子の上で頭を下げた。
「こちらこそご感想をありがとうございます。あなたの書かれた小説を読んだら自分でも書いてみたくなったので、読んでいただき光栄でした」
そんなに嬉しい言葉はないな、と彼が笑う。そして、それまでと変わらない調子で言った。
「君がこの話を気に入っていたらいいなと思うよ」
「どういうことですか?」
彼は足を広げて身を乗り出す。
「負の感情の吐き出し口として書いた作品は、あまり読み返したくならないものだ。いつか時間が経って、ああ、このとき自分は苦しかったのだな、と回想するきっかけにはなるがね」
「そうでしょうね」
私は口の中がからからに乾き、思わず机の上の缶に伸ばした。缶をつかんだ手は予想より高く上がり、私はすでにその中身を飲みきっていることを知った。
彼は立ち上がり、少し笑って言う。
「君のこれからの創作活動を応援しているよ。体には気をつけなよ、君、飲み過ぎるところがあるから」
私もやっと、声に愛想を込めることができた。
「分かっていますよ。ありがとうございます」
それじゃおやすみ、と言って彼はログアウトした。私は一人きりになった部屋で、酒の入っていた缶を握りつぶした。
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